立花宗茂 「日本無双」と呼ばれた名将の生涯について

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伊勢や近江で戦う

宗茂は軍勢を率いて上洛し、伊勢や近江(滋賀県)で戦いました。

そして義兄弟の小早川秀包とともに、東軍についた京極高次が篭もる大津城の攻略戦に参加しています。

この時に宗茂は「早合(はやごう)」という、養父・道雪が開発した鉄砲の速射技術を用い、敵を圧倒してその火力を封じ込めました。

早合は、あらかじめ射撃に必要な火薬を1発分ずつ小分けにしておき、装填にかかる時間を大幅に短縮する、という工夫でした。

当時の鉄砲は1発ごとに火薬と弾を詰め直さなければならないため、装填にひどく時間がかかりました。

しかしこの早合を用いることで、敵軍よりも3倍も早く射撃することができ、このために立花軍の鉄砲隊は、他家よりも圧倒的に優れていたのです。

宗茂は他にも、高台から大砲を城内に撃ちかけるなどして敵を弱らせ、城内の防御施設を占拠し、京極高次を追いつめています。

この城攻めからわかる通り、宗茂は刀槍の戦いだけでなく、柔軟に火器を駆使できる戦術能力も備えていました。

西軍が壊滅し、撤退する

こうして宗茂は有利に戦いを進めますが、この間に関ヶ原で主力決戦が行われ、西軍は大敗を喫してしまいます。

このため、宗茂はやむなく兵を引いて大坂に戻りました。

そして西軍の総大将・毛利輝元に、大坂城に籠城して抗戦を続けるようにと主張しますが、輝元は既に家康と和睦交渉を開始しており、断られてしまいます。

これ以上は戦えないと判断した宗茂は、領地の柳川への撤退を決意しました。

島津義弘を護衛して柳川に戻る

大阪から九州まで戻る途中で、宗茂は島津義弘の軍勢と遭遇しています。

島津軍は関ヶ原の戦いに参加し、撤退戦の際に多くの将兵を失い、100名足らずのわずかな部隊で薩摩まで戻るところでした。

島津義弘は父・高橋紹運の仇の一人であり、このために家臣が「この好機に義弘を討ち取ってしまうべきです」と進言します。

しかし宗茂は「敗軍を討つのは、武家にとって不名誉なことである」と言ってこれを退けました。

そしてその逆に、兵の少ない義弘に護衛をすると申し出て、島津軍と合流し、無事に柳川まで到着しています。

義弘は宗茂に感謝の言葉を述べ、これによって立花氏と島津氏のわだかまりが解消されました。

義弘は薩摩に戻ると、宗茂から受けた恩に報いるため、九州の東軍勢力から攻撃を受けるであろう柳川に、援軍を送る措置を取っています。

なお、この時に別居していた妻・誾千代が、数十名の従者を率いて城の表まで出向き、宗茂を出迎えています。

このあたりの様子を見るに、必ずしも夫婦仲が悪かった、というわけでもなかったのでしょう。

開城と降伏

宗茂が柳川に戻った頃、九州では東軍に属した諸大名たちが、柳川に攻め込む気配を見せていました。

特に肥前(佐賀県)の鍋島直茂は、嫡男の勝茂が西軍に参加して戦っていたことから、これを挽回して家康の心象をよくするため、柳川を攻めて戦功を上げる意図を持っていました。

宗茂はこれ以上の戦いに意味はないと考えており、すでに家康に恭順するつもりでいたため、柳川城に残りました。

しかし敵が領内に侵攻してくるのを見逃すわけにもいかず、小野鎮幸が3000の兵を率いて迎撃しています。

鍋島軍は3万を超える大軍であり、この戦いで立花氏の一族や、先鋒大将たちが数多く戦死しています。

鎮幸も危機に陥りますが、かけつけた別働隊が救出し、かろうじて柳川城へと撤退しました。

これで戦果は十分と見たのか、剛勇で成る立花軍をこれ以上追い詰めると、手痛い反撃を受けると警戒したのか、鍋島直茂は進軍を停止しています。

そして文禄・慶長の役で苦楽をともにした加藤清正や黒田官兵衛らが、開城するようにと交渉を持ちかけてきました。

宗茂はこれを受け入れ、柳川城を開城して東軍に譲り渡します。

この時に領民が「開城をやめてください。私たちが命を惜しまずに戦いますので」と宗茂に懇願しましたが、宗茂は「皆を戦闘に巻き込みたくないから降伏するのだ。わかってほしい」と説得してなだめました。

宗茂が柳川を離れる際には、領民たちが涙ながらに見送ったと言われています。

宗茂は戦いに強いだけでなく、領民にも慕われる人格の持ち主であったようです。

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