徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

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徳川家康は三河(愛知県東部)の小領主から身を起こし、織田信長と同盟を結んで勢力を伸ばした人物です。

子どもの頃に人質になったり、武田信玄に苦戦したり、豊臣秀吉に臣従したりと数多くの苦難を経験しましたが、最終的には天下を制しています。

家康が開いた江戸幕府は長期安定政権として、264年に渡って平和な時代を築きました。

この文章では家康がどのような道のりをたどって天下人となり、世の安定のために尽くしたのか、について書いてみます。

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【徳川家康の肖像画】

松平広忠の嫡男として生まれる

家康は1542年に三河の小領主・松平広忠の嫡男として誕生しました。

幼名は竹千代といいます。

母の於大(おだい)は近隣の領主・水野忠政の娘でしたが、水野氏はやがて松平氏が敵対する織田氏と同盟を結んでしまいます。

このため家康が3才の時に離縁され、実家に戻されました。

こうして家康は、幼いころに母と生き別れになっています。

今川氏への従属と尾張での人質生活

松平氏は家康の祖父・清康の代に勢力を伸ばして西三河を制していた時期がありましたが、その死後はふるわず衰退していました。

そして尾張(愛知県西部)の織田信秀から圧迫を受けるようになり、領地を失いかねない情勢になっていきます。

このため、1548年になると父・広忠は駿河と遠江(静岡県一帯)を支配する今川義元の支配下に入って庇護を受けることにし、嫡男の家康を人質として送ることにします。

家康の護送は三河の土豪・戸田康光に任されますが、この康光が今川氏を裏切り、織田信秀の所に家康を届けてしまいます。

信秀は家康の身柄を受け取り、自分に従属するようにと広忠に要求しました。

しかし広忠は子を取られたにも関わらずこれを拒否し、今川義元への従属姿勢を堅持します。

家康は尾張にとどめ置かれ、この頃に信秀の嫡男・信長と知り合ったと言われています。

安祥城の攻略

1549年になると、今川義元は腹心の太原雪斎に軍を預け、西三河の安祥城を攻撃させます。

安祥城は信秀に占拠され、三河侵攻の拠点となってた城です。

ここを攻略して織田氏の勢力を三河から排除し、城主の織田信広を捕縛するのが今川軍の目的でした。

雪斎は2万という大軍を率い、2度に渡る激戦の末に安祥城を攻め落とし、信広を捕縛します。

信広は信秀の庶長子で、織田氏にとってはそれなりの重要人物でした。

雪斎は信広と家康の人質交換を要求し、家康を取り戻します。

こうして家康は、ようやく織田氏の元から解放されました。

父の死

しかし安祥城で攻防戦が行われていた時期に父の広忠は死去しており、松平氏は当主が不在の状態になってしまいます。

広忠は暗殺されたとも病死だったとも言われ、死因ははっきりとしていません。

にも関わらず、家康はそのまま駿河に送られ、松平氏の領地と本拠・岡崎城は今川氏の代官が治める状態になっています。

こうして松平氏は、その勢力を今川氏に完全に取り込まれてしまいました。

駿河で成長する

今川義元は家康を駿河に置き、今川氏に属する一武将として育て、松平衆を今川軍の尖兵として用いる意向を持っていました。

このため、家康はたまの帰郷の時以外は駿河にとどめ置かれ、そこで成長していきます。

岡崎城に戻った際には代官が本丸にいて入ることができず、二の丸で宿泊するなどしています。

三河は今川氏の植民地扱いになっていたことがうかがえます。

領地に戻った際に、今川氏に搾り取られる家臣たちの経済的な苦境を知り、家康は質素倹約に励むようになっていきました。

この傾向は一生の間続くことになり、家康は後に莫大な財産を子孫たちに残すことになります。

元服して初陣を飾る

1555年に家康は13才で元服(成人)します。

そして義元から一字を拝領して松平元信と名のりました。

また、義元の姪の瀬名姫と結婚し、今川氏と縁戚関係になっています。

しばらくすると名を元康に変更していますが、これは勇将として名高い祖父の清康にあやかったものだと言われています。

こうしてしばらくは「松平元康」の名で過ごすことになります。

1558年には尾張の寺部城攻めで初陣を飾り、城下を焼き払うなどの戦功を立てました。

これによって義元から旧領のうち300貫を返還され、勢力の一部を取り戻しています。

この時に家康は16才でしたが、ここから73才まで、長く続く戦いの人生を過ごすことになります。

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