徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

スポンサーリンク

東軍の結成

その他の数万石級の大名たちも家康に従い、山内一豊ら東海道に領地を持つ諸将は、家康に居城を明け渡す措置まで取っています。

これによって家康は労せずして数十万石の領地を得ており、西に向かう通路を確保できました。

この動きを主導した一豊の働きを評価し、後に土佐一国を与えるという恩賞で報いています。

こうして家康は巧みな手腕によって三成討伐のための「東軍」を結成し、西進作戦を実行することになります。

(なお、西軍・東軍という呼び名は後世につけられたもので、当時からそう呼ばれていたわけではありません。)

三成の挙兵を予測していたのか?

この時に家康は三成の挙兵を、事前に予想していたという説があります。

実際のところは不明ですが、大坂や京都を敵に抑えられ、もしも秀頼の名前で家康を咎める声明が出されていたら、一気に窮地に陥る可能性もありました。

その場合には福島正則や黒田長政も家康に味方しなかったでしょう。

朝廷と豊臣氏を抑えられてしまうと、そこからどのような政治的な危機が発生するかわかったものではなく、家康は三成の挙兵を察知していなかったのではないかと思います。

予想していたのであれば、もっと上方に兵を残し、容易に挙兵できないようにしていたでしょう。

前田氏に続いて上杉氏を、といった具合に段階的に征伐を行って政敵を減らしていった方が安全ですし、有利な立場にあり、しかも手堅い手段を好む家康が、そのような博打を打つのは考えにくいと思われます。

江戸にとどまって工作を行う

この時に家康はいったん江戸に戻り、福島正則らの諸将を先に尾張まで向かわせます。

そうした措置を取った後で家康は動かなくなり、1ヶ月もの間、江戸に留まり続けました。

三成と関係が深く、領地を接する常陸(茨城県)の大名・佐竹義宣の動向が不透明で、これを見極める必要があったためです。

この間に家康は160通もの書状を各地の大名たちに送り、自分に味方するようにと促しました。

これによって伊達政宗や最上義光らを味方に付け、東北で上杉氏を牽制できる体制を作り上げました。

同時に次男の結城秀康を上杉氏への抑えに残し、関東を守らせることにします。

こうして自領を防衛する体制を固めると、今度は西軍への切り崩しをかけていきます。

西軍の切り崩し

まずは西軍の諸将に顔が広い黒田長政を通じ、小早川秀秋や吉川広家といった有力な武将を味方につけることに成功します。

他にも藤堂高虎が脇坂安治ら、幾人もの武将を寝返らせることに成功しており、家康は戦う前に勝利を決すべく、入念な支度を行いました。

先に述べた通り、西軍についている大半の武将は成り行きでそうしているだけの者が多く、明確に家康に敵対心を持つ者は限られていました。

家康はこの時代で最も古い戦歴の持ち主で、その名声も実力も並ぶ者がありません。

このため、報奨の約束などによって西軍の武将たちを寝返らせるのは難しくなく、家康の切り崩し工作は順調に進んでいきます。

領地が19万石に過ぎず、戦下手だと評判のある三成と、250万石の大大名で、秀吉とも互角に戦った歴戦の武将である家康のどちらに味方したほうがいいのか、冷静に計量すれば、家康に味方する者が多くなるのは当然のことでした。

西軍の総大将は毛利輝元でしたが、さほどの能力はなく、家臣の補佐を受けて当主としての役割を果たしているに過ぎないのは周知のことでしたし、こちらも家康の相手になるには役者不足でした。

【次のページに続く▼】