北条氏との外交
家康は秀吉に臣従した後、関東を支配する北条氏への外交を担当しています。
かつては家康と同じく、駿河で人質として過ごしていた旧友の北条氏規を窓口にし、当主の北条氏政・氏直親子と交渉を行います。
北条氏の領国を削らないことを条件として秀吉への臣従を促しますが、氏規を上洛させはしたものの、氏政・氏直親子は最終的に臣従を拒んでいます。
そして1589年には北条氏の家臣・猪俣邦憲(くにのり)が、真田昌幸の支配する名胡桃城を奪取するという事件を起こし、これを受けて秀吉はついに北条氏の討伐を決意します。
準備を整えた秀吉は翌1590年になると、25万という大軍を率いて関東に乗り込みました。
対する北条氏の戦力は8万でしかなく、はじめから勝負が見えている戦いでした。
北条氏は中央政界への感度が鈍く、戦いになればすぐに滅ぼされてしまうことになるという現実が、見えていなかったようです。
この家康との対応の差が、家の存続と滅亡という差になって反映されることになります。
北条征伐
家康もこれを受け、やむなく交渉を打ち切って北条征伐に加わります。
そして箱根を越えて小田原城の包囲戦に参加しました。
豊臣軍は圧倒的な戦力をもって関東各地の城を攻略してゆき、2ヶ月程度の戦いで北条氏を追いつめました。
小田原城では積極的な攻撃はほとんど行われませんでしたが、家康の重臣・井伊直政が夜襲をしかけて小田原城内に侵入し、敵兵400を討ち取るという武功を立て、徳川軍の面目を施しています。
この戦いは1590年の3月ごろから始まり、7月5日の北条氏直の降伏をもって終結しています。
こうして早雲以来、100年に渡って関東に勢力を伸ばした北条氏は、あえなく滅亡しています。
このことが、家康の運命にも大きく影響することになります。
関東への移封
北条氏が降伏して関東が秀吉の支配下に入ると、家康は東海・甲信の領地を召し上げられた上で、関東に移動することを命じられます。
家康の領地は150万石から250万石に加増され、さらなる大領の主となりました。
これは500万石程度の領地を持つ秀吉に次ぐ地位であり、他の大名たちと比べても、その領国の広さは抜きん出ていました。
他には中国地方で120万石の毛利氏や、北陸で120万石の上杉氏が最大規模であり、家康の地位がいかに高かったかがうかがい知れます。
しかし、北条氏の領地は他の土地よりも税金が1割も安く、急激な増税は社会不安を引き起こしますので、家康はこの税率を継承しています。
このため、関東は石高の額面ほどには収入を得られない土地でした。
さらに当時の先進地帯である畿内から遠ざけられたことにもなり、これを家康の栄転と言い切ってよいかどうかは、微妙なところだと言えます。
当時の関東は農業生産力はあったものの、基本的には草深い田舎でした。
このため、秀吉は家康を敬して遠ざけたのだ、と見ることもできるでしょう。
この時に家康は武蔵国の江戸を本拠と定め、後に100万の人口を誇ることになる大都市の基盤を形成していきます。
都市圏の形成事業は明治以降も引き継がれ、後の東京の繁栄につながっていきます。
関東の繁栄は家康の入府によって始まった、と言っても過言ではありません。
【次のページに続く▼】