家康と真田昌幸の対立
家康が北条氏との同盟を維持する中で、問題となっていたのが真田昌幸の存在でした。
かつて同盟を結ぶ際に、上野は北条氏の領地であると定めたのに、家康に臣従する昌幸は沼田城を所有したまま、これを手放しませんでした。
家康は何度も昌幸に沼田城を明け渡すようにと要求しましたが、昌幸が応じることはありませんでした。
沼田城はもともと昌幸が独力で奪取した城であり、これを明け渡してほしいのであれば、替わりの領地を用意するようにと要求してきました。
昌幸の申し出はもっともではありましたが、この頃の家康にはその余裕がなく、両者の関係はこじれていきます。
家康と昌幸の間を仲介していた依田信蕃が戦死してしまったこともあり、ついに1585年にその関係は決裂します。
これには、家康が昌幸の主君であった武田勝頼の滅亡に関わっていたことも影響したでしょう。
昌幸は家康への臣従を取りやめ、越後を支配する上杉景勝に鞍替えします。
そして上杉氏の支援を受け、徳川氏への敵対の姿勢を明らかにしました。
これを受け、当時病床に伏していた家康は、重臣の鳥居元忠に7千の兵を預け、昌幸の本拠・上田城の攻略を命じました。
この戦いがこれから長く続くことになる、徳川氏と真田氏の戦いの始まりでした。
上田合戦
徳川軍は信濃に到着すると、昌幸の居城である上田城を包囲します。
昌幸の軍勢は2千程度でしたので、徳川方が圧倒的に優位な状況にありました。
このために昌幸は籠城戦を選択しますが、単に城に篭もるだけではなく、周囲に別働隊を配置し、徳川軍を撃退するための策を練っていました。
やがて鳥居元忠率いる徳川軍は、上田城への攻撃を開始します。
当初は順調に攻略が進み、大手門を破って城内に侵入します。
しかしそこで頑強な反撃を受けて撃退され、城から追い出されてしまいました。
するとそこに、近隣の支城から出撃してきた昌幸の嫡子・真田信幸の部隊に背後から襲撃され、徳川軍は大混乱に陥ります。
昌幸の親族・矢沢頼綱や上杉勢も追撃に加わったことで徳川軍は崩壊し、1300人という多大な死傷者を出して敗北しました。
家康はこの敗報を受け、腹心の井伊直政を援軍として送り出し、敗残兵をまとめて撤退させています。
家康自身が率いた軍勢ではなかったとは言え、精強を誇る徳川軍が、3分の1以下の敵に敗れたのは大きな衝撃でした。
これまで昌幸は信濃の一豪族であるとしか思われていませんでしたが、この鮮やかな戦勝によって、一躍独立した勢力を持つ大名として周囲から認知されるようになっていきます。
家康もまた、真田氏に対する認識を改めざるを得なくなりました。
石川数正の出奔
真田氏に手痛い敗戦を喫したこの年に、さらに試練が続きます。
11月に、家康の重臣であった石川数正が出奔してしまったのです。
数正は秀吉との外交を担当しており、その実力をよく理解していたことから、家康に豊臣氏への臣従を勧める立場にありました。
これに対し、酒井忠次や本多忠勝らは臣従に反対し、独立を保つようにと家康に主張しており、家中でも意見が割れていました。
そういった軋轢から数正に対する反発が強まっていき、やがて身の危険を感じるようになった数正は、秀吉の元に去ってしまったのです。
数正は家康が三河の統一戦を行っていた頃からの家臣で、徳川軍の機密にもよく通じていました。
このために家康は家中の軍法を刷新し、武田信玄の軍制を見習って改革を行います。
数正は三河勢の取りまとめも行っており、その数正が出奔したことが家臣団の動揺を招き、家康は窮地に追い込まれていくことになります。
秀吉による懐柔
1586年になると、秀吉は家康に対する懐柔策を実施してきます。
先に同盟を結んでいた織田信雄を通じて家康に臣従を促すと共に、妹の朝日姫を、家康の正室として嫁がせました。
5月に家康は朝日姫を迎え、秀吉と義兄弟になっています。
しかしそれでも家康は動きませんでした。
この頃には秀吉の勢力は小牧・長久手で戦った頃よりもはるかに強大になっており、真田氏の討伐にも苦戦していた徳川氏の力では、もはや対抗しきれない状況になっていました。
家康もそのことは理解していたでしょうが、安易に上洛できない理由が、身内の方にありました。
徳川家臣団は家康への忠誠心が強いものの、同時に視野が狭い傾向にあり、どうあっても秀吉を信用できないと考える者が多く、上洛への反対論が根強く残っていました。
家康はそうした家臣たちの意志を、軽々しくは扱えませんでした。
家康の安全保障のために妹を人質として差し出した秀吉でしたが、それでも上洛しないのを見て、今度は実母の大政所を、娘の朝日姫に会いに行く、という名目で送ってきています。
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