三河の統一
一向一揆の撃破によって西三河の勢力を固めた家康は、東三河にも進出し、戸田氏などの諸豪族を取り込んでいきます。
そして今川氏真の討伐軍を撃退するなどして支配権を確立し、1566年までには三河の統一に成功しました。
こうして家康は独立してから6年で一国の主となり、祖父の清康を超える松平氏の最大勢力を築いています。
この時の家康はまだ24才で、若くして戦国大名としての優れた手腕を持っていたことがうかがえます。
軍制の改革
三河を統一した家康は、間もなく家臣団の再編に着手します。
東三河と西三河に家臣団を振り分け、東三河衆を酒井忠次に率いさせ、西三河衆を石川数正に率いさせます。
両者は家臣団の筆頭として、家康の活動を補佐していくことになります。
家康は同時に「旗本先手役(さきてやく)」という親衛隊を編成し、これを直属の強力な軍団として育成していきます。
先手隊に所属した武将には、本多忠勝や榊原康政、井伊直政らの、後に「家康の四天王」と呼ばれる精強な指揮官たちが含まれています。
先手役の費用はすべて家康持ちで、この直属の強大な軍団を従えることで、家康は自身の権力を強化していきました。
土地持ちの武将たちは半ば独立勢力なので、潜在的には家康に反抗する可能性があり、直属の強力な部隊を抱えておくことは、この時代の大名にとっては重要な施策でした。
これは織田信長が「馬廻(うままわり)」という親衛隊を組織していたのをまねたのだと思われます。
費用の一部は信長の援助によってまかなっていたという説もあり、信長との関係がこの頃にはかなり深まっていたようです。
信長は家康を自分の弟分として扱い、何かと気をつかい、親切に接していました。
信長の配慮には、戦闘力が高い三河の武士団の力を借り受けたい、という理由も含まれていたでしょう。
家康も信長を頼りにするようになり、三河武士の力をもって、信長の覇権の確立に協力くしていくことになります。
徳川氏への改姓
三河の統一に成功した家康は、朝廷に三河守の官位への叙任を要請していました。
しかし朝廷からは、源氏である松平氏が三河守になった前例はない、という理由によってこれを断わられています。
家康は付き合いのある公家の近衛前久(さきひさ)に相談したところ、それならば「得川」を名のってはどうか、と勧められます。
得川氏は新田源氏の支族で、一時は藤原氏を名のっていたことがありました。
松平氏はかつて、この得川氏の支族である世良田氏を名のっていましたので、得川氏を名のることが可能でした。
得川氏になれば藤原氏の一族であるということになり、藤原氏は三河守に就任したことがあるので、家康が三河守になるのも問題はない、ということになります。
何ともややこしい話ですが、前例踏襲主義の朝廷から官位をもらうには、そういった手順が必要だったようです。
家康は「得川」を、より良い意味を持つ「徳川」の文字に変え、「徳川家康」と名のりを変えました。
これによって所属する氏の障害がなくなり、家康は無事に三河守に就任しています。
また、他の松平氏たちはそのままにしておいて家格に差をつけ、これによって三河における家康の特権的な立場の形成も図っています。
軍制の改革と合わせ、このあたりの家康の家中統制のやり方は見事なもので、安定した体制構築に長けた政治家としての資質をのぞかせています。
【次のページに続く▼】