徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

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九条兼孝を関白に任じさせる

関白の地位は豊臣秀次が解任されて以来、空位となっていましたが、家康は関ヶ原の勝利後、摂関家の九条兼孝を関白に任じさせます。

これにより、秀頼が関白に就任し、豊臣氏が権威を取り戻すことを防ぎました。

もともと関白は摂関家の出身であれば誰でも就任できる地位でしたが、豊臣家の世襲になったように思われていたのを、解放する意味もあったと思われます。

とは言え、まだ将来に秀頼が関白に就任する可能性は残されていたため、これですべてが解決したとは言えない状況でした。

征夷大将軍への就任

秀吉は関白となって天下人としての権威を得ていましたが、家康は秀吉とは別の方法で天下人となることを目指します。

それは征夷大将軍となって、江戸に幕府を開くという方法でした。

関白になると京都の朝廷の側にいなければならず、本拠地である江戸を中心とした政権を築くのが難しくなります。

征夷大将軍であれば、源頼朝が開いた鎌倉幕府の前例があり、京都から遠い地に政権を築くことができますので、こちらを選んだのでしょう。

まだ大坂に豊臣氏が健在だったので、これと距離を起き、独立した政権を築いたことを印象づける意味もあったと思われます。

家康の朝廷への働きかけの結果、1603年に後陽成天皇から勅使が派遣され、家康を征夷大将軍に任命するとの宣旨が下されます。

家康は京都に築いた二条城でこれを受け、征夷大将軍に就任し、武家の棟梁としての地位を確立しました。

この時に江戸幕府が開かれ、ついに家康が目指した、徳川氏による日本の支配体制が構築されたことになります。

家康はこの時61才でしたが、普段からの節制の効果でまだまだ健康で、ここから幕府の権力を盤石にするための活動を行っていきます。

秀忠への継承

1605年になると、家康は早くも後継者の秀忠に将軍位を譲り、自身は大御所と呼ばれるようになりました。

この措置によって、今後は徳川氏が将軍位を代々継承し、天下人として君臨していくことを世に示しました。

家康は将軍に就任した秀忠に挨拶に来るようにと秀頼を促しますが、拒絶されています。

秀頼を関白に就任させず、秀忠を将軍にしたことで、家康は豊臣氏に政権を返す意向がないことを明らかにしたことになります。

これがかつての天下人であった豊臣氏の反発を招き、両家の間にいさかいが残った状態が続きます。

この頃にはまだ諸大名の豊臣氏への忠誠心が残っており、強引な手段を用いれば、どのような変事が起こるかわからない情勢でした。

そのため、豊臣氏への対応をどうするのかが、家康に最後の課題として残されることになります。

豊臣家と徳川家の関係

家康はかつて秀吉の遺言によって、秀忠の娘の千姫と、秀頼を結婚させていました。

つまり、秀頼は家康の孫の婿という関係になります。

さらに秀頼の母の淀殿と、秀忠の正室のお江は姉妹で、こちらにも血縁がありました。

豊臣氏の家老の片桐且元は家康に任命されていますし、他にも政務の取り仕切りのために家康は人材を送り込んでいました。

このように両家は深い関係にあり、もしも豊臣氏がかつての栄華を忘れ、一貴族として生き延びる道を選ぶのであれば、家康はそれを受け入れて存続させたことでしょう。

しかし豊臣氏を支配する淀殿は徳川氏への臣従を拒み続け、巨大で壮麗な大坂城と、秀吉が蓄えた大量の財宝を抱えたまま、対抗姿勢を取り続けました。

このため、家康もだんだんと豊臣氏を取り潰す可能性について、考慮するようになっていったと思われます。

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