高天神城の攻略
1581年になると、家康は5千の兵を率いて高天神城に攻め込みます。
高天神城は遠江の要衝で、長篠の戦いの前に勝頼に奪取されていた城です。
家康は周辺の城を占拠して包囲体制を構築し、数年をかけて追いつめました。
武田氏は長年の織田・徳川・北条との戦いによって疲弊しており、勝頼は高天神城に援軍を送ることができませんでした。
この時に信長から「城主の降伏を許さぬように」と要請が来ています。
これは、勝頼が高天神城を見殺しにしたことを強調するための信長の策でした。
家康はこれに応じて城主・岡部元信の降伏を許さず、城を包囲して兵糧攻めにします。
やがて餓死者が出るにいたり、追い詰められた岡部元信は残兵とともに出陣しましたが、徳川軍によって全員が討ち取られました。
こうして家康は600もの首級を上げ、遠江から武田氏の勢力を駆逐しました。
一方で、勝頼は高天神城を救援できなかったことで、武田氏の総帥としての立場を失うことになります。
木曽義昌の寝返りと駿河への侵攻
高天神城を見捨てた上、勝頼が新しい城の建築のために多額の負担を押し付けたことで、武田家臣団の勝頼への反発が強まっていきました。
そしてついに1582年になると、信濃の木曽義昌が信長に寝返ります。
義昌は信玄の娘婿で、武田氏の一門衆に数えられる重臣のひとりです。
その義昌が寝返ったのを見て、信長は武田氏を滅ぼす時が来たと判断し、嫡男の信忠を総大将とした大軍を信濃に派兵します。
そして家康は、同時に遠江から駿河へと攻め込みました。
この時に駿河の領主・穴山信君に調略をかけて寝返らせ、ほとんど戦わずして駿河の接収に成功します。
一方で、信長の軍団に対しても武田家臣団は次々と降伏し、まともな抵抗は勝頼の弟・仁科盛信が守る高遠城で行われただけでした。
こうして信玄の時代に強勢を誇った武田氏は、わずか1ヶ月ほどで瓦解してしまいます。
武田氏の滅亡と信長への接待
この年の3月には勝頼が天目山に追い詰められて自害し、武田氏は滅亡しました。
家康は穴山信君とともに甲斐に入り、信長と合流します。
そこで論功行賞が行われ、家康は駿河一国を領有することになり、3ヶ国を支配する大大名の地位につきました。
これでかつての今川義元と同等の勢力圏を築いたことになります。
信長は甲斐から駿河を経由して畿内に帰還しますが、その道中で家康は信長を盛大にもてなしました。
信長のために街道を整備し、新たに宿館を設けるなどしています。
また、大井川を渡る際に、船橋をかけて信長を感動させました。
船橋とは、船を縄でつないで川の上に連ね、船の上に土をまいて固めて平らにし、歩いて川を渡れるようにしたものです。
多くの労力と費用を要する贅沢なものであり、家康のこの接待にかけた思いが、並々ならぬものであったことがうかがえます。
家康は吝嗇で知られた人でしたが、大事な時には費用を惜しまない性格でもありました。
これには10年以上も共に戦い続け、ようやく武田氏を滅ぼせたことを祝う気持ちも込められていたのでしょう。
信長はこの接待の返礼のため、安土城に家康を招待します。
家康の上洛
この年の5月に家康は信長の招待に応じ、穴山信君と共に近江(滋賀県)の安土城に向かいました。
安土城は信長が築いた豪華絢爛な城で、ここで家康は明智光秀の接待を受け、盛大にもてなされます。
この時に信長は、自ら家康のために膳を運ぶという心遣いを見せています。
ついに武田氏を滅ぼしたことで、信長は天下人としてのゆるぎない名声と実力を獲得していました。
これに対する家康の貢献は多大なもので、感謝の気持ちを強く表したかったのでしょう。
やがて信長のもとに、中国地方で毛利氏と対峙する羽柴秀吉からの書状が届き、これを支援するために信長自らが出陣することになります。
こうして安土城で信長と別れますが、これが二人が顔を合わせる最後の機会になりました。
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