諸外国との国交
家康は1607年に朝鮮通信使を迎えて会見し、秀吉の行った朝鮮討ち入り以来、途絶えていた国交を回復させています。
また、1609年にはオランダと、1613年にはイギリスと国交を結び、九州の平戸で交易を開始しました。
徳川幕府は後に、諸外国との国交を制限する鎖国政策を実施しましたが、家康の時代には開放的な空気が残されており、家康は自身の側近として、イギリス人のウィリアム・アダムスを雇用するなどしています。
こうして家康は交易による財力の強化も図っていきました。
一方でキリスト教の布教を重視するスペインは締め出し、禁教令を発布しています。
当時のスペインはキリスト教を植民地拡大の手段として用いており、住民を手懐けて現地を支配するのに利用していました。
こうした情報がスペインと敵対する国々から日本に伝わり、キリスト教信者への弾圧へとつながっていきます。
また、家康の死後に交易場所は長崎の出島に制限され、日本人が外国人と接触する機会は、極端に少なくなっていくことになります。
新しもの好きだった
家康は保守的な性格の持ち主だったと言われていますが、この時代は西洋から新しい文物が多数もたらされた時代であり、家康はこだわりなくそれらに親しんでいます。
特に晩年は時計に興味を持つようになり、南蛮時計や砂時計、日時計などを所有していました。
また、コンパスや鉛筆、メガネなども用いており、実際には新しもの好きな性格だったようです。
徳川政権が保守化していったのは秀忠や家光の政策によるところが大きく、統治を安定させるために、だんだんとその傾向が強まっていったのでしょう。
二条城の会見
先に秀忠が将軍になった際の会見が拒絶されたことで、徳川氏と豊臣氏の関係は冷めた状態が続いていました。
1611年になると、家康は再度秀頼を上洛させ、会見を行うことを試みます。
これには豊臣氏と関わりの深い加藤清正や福島正則、そして淀殿の親類の織田有楽斎などが働きかけを行っています。
そして豊臣氏の家老である片桐且元が、「これ以上拒むと戦争にもなりかねません」と淀殿を説得したことで、ついに秀頼と家康の会見が実現することになりました。
秀頼は「妻の千姫の祖父に挨拶をする」という名目で京都の二条城に向かい、そこで家康と顔を合わせました。
家康はこの会見によって徳川氏が豊臣氏よりも上位にあると世間に認知させたかったのでしょうが、秀頼が用いた名分のために、これが成立したかどうかは微妙なところでした。
大名たちの死
この会見の直後に加藤清正が病に倒れ、間もなく亡くなっています。
また、秀吉の妻・高台院の実家である浅野家の当主・長政と、嫡子の幸長(よしなが)が相次いで死去しました。
それ以外にも、二条城の会見に立ち会った池田輝政もまた、1613年に急死しています。
こうして縁が深い実力者たちが次々と世を去ったことにより、豊臣氏の諸大名への影響力が急速に低下していきます。
徳川氏にとっては都合のよい展開でしたが、これが作為的なものだったのか、それともただの偶然だったのかは定かではありません。
これらの大名たちの死には暗殺説もあるのですが、証拠はなく、噂として語られたにとどまっています。
彼らの死によって徳川氏と豊臣氏の間を取り持てる人材が急減し、会見の意味も失われていくことになります。
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