家康の上洛
妹に続いて母までも送って来たのを受け、ついに家康は上洛を決意します。
これ以上臣従を拒み続ければ、もはや再び戦うしか道がなくなるからです。
今はもう北条氏以外に同盟相手を見つけることは困難で、いずれは追い詰められて攻め滅ぼされるのが目に見えていました。
このために家康は、ついに独立を保つことをあきらめ、京都へと向かいます。
この時に家康は、万が一秀吉に襲撃されることを警戒し、3万の大軍を率いていました。
それだけ家臣たちが家康の身を案じたということでもありますが、同時に秀吉に対する敵愾心が強く残っていたのでしょう。
家康の家臣・本多重次(しげつぐ)は留守居役として浜松城に残りましたが、家康が出発すると、朝日姫と大政所を屋敷に閉じ込め、周囲に薪を積み上げ、「家康様の身にもしものことがあれば、火をつける」と脅しました。
重次は後にこれを知った秀吉の怒りを買い、家康から処罰を受けています。
こうした重次のふるまいに、当時の徳川家臣団のありようが、つまりは家康を担いでいた人々の相貌が浮かび上がって来るように思えます。
秀吉との対面
家康は秀吉の弟・秀長の屋敷に入り、そこで大勢の護衛に守られて翌日の秀吉との面会を待ちます。
すると、その夜に秀吉が供をひとり連れただけの状態で訪ねてきて、家康と密かに会談を持ちました。
そこで秀吉は、明日はふんぞり返って大いに偉ぶるので、家康はそれに頭を下げて臣従を誓ってほしい、と依頼してきます。
その気になれば家康は秀吉を殺害できる状況にありましたが、妹と母に続いて、自身の身をも危険にさらして臣従を促す秀吉の姿に圧倒されたのか、家康はこの申し出を受け入れます。
秀吉の、何を失うことも恐れずに天下統一を成し遂げようとする姿を見て、ある種の畏敬の念を抱いたのかもしれません。
翌日になると、約束通りに家康は諸大名たちの前で秀吉に臣従を誓い、豊臣政権に服従することを約束しました。
この時に家康は、秀吉の陣羽織を譲ってくれるようにと願い出て、今後は秀吉が軍の指揮をとらずにすむようにします、とまで言って秀吉への忠誠を誓いました。
こうして秀吉は自身の政権の安定を手に入れ、家康は独立を失ったものの、勢力の維持に成功しています。
家康が人に仕えるのは、今川義元についで2回目のことになります。
豊臣政権の重臣となる
秀吉は臣従した家康を厚遇します。
1586年には正三位に叙任され、ついで翌年には従二位・権大納言にも叙任されました。
これによって豊臣政権下で、秀吉に次ぐ地位を手に入れています。
秀吉は家康に東日本の統治を委ねる意向があり、このために家康の地位を引き上げていきました。
小牧・長久手の対戦の際に家康の実力に触れ、それを任せられるだけの力量があるとみなしていたのでしょう。
秀吉は、日本の統一を果たした後には朝鮮半島や中国大陸をも支配しようという構想を持っており、日本の地方の支配は諸大名たちに任せる考えを持っていました。
このことが、家康の勢力を伸長させ、後に政権奪取を可能とするだけの権威や実績を備えさせることにもつながっていきます。
真田氏との関係の改善
この頃には真田昌幸も秀吉に臣従しており、ともに豊臣政権の家臣という立場になりました。
秀吉は両者のいさかいについて聞き取りをし、昌幸の沼田城を安堵し、家康の与力として仕えさせることでこの抗争を終わらせます。
与力とは、秀吉の直臣の立場でありながらも、他の直臣に力を貸す立場のことを言います。
これを受け、昌幸は嫡男の信幸を家康の元に出仕させました。
家康は両家の和解のため、本多忠勝の娘・小松姫と信幸を結婚させようとしますが、昌幸はこれに反対します。
家康の家臣と嫡男を結婚させれば、将来は真田氏が徳川氏の家臣として組み込まれることになるからです。
このため、やむなく家康は小松姫を自分の養女とし、その上で信幸と結婚をさせました。
こうして徳川氏と真田氏は義理とはいえ縁戚関係となり、信濃の情勢も安定します。
信幸は家康や忠勝との関係が深まったことから、徳川氏に好意を寄せるようになっていき、やがて真田氏の中でも分裂が生じていくことになります。
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