徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

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秀吉の死と五大老への就任

秀吉は1598年ごろから病がちとなり、やがて自らの死期を悟ります。

後継者の秀頼はまだ5才でしかなく、このために秀頼が成人するまでの間、豊臣政権を維持するための体制の構築が必要になりました。

この時に家康と前田利家を筆頭に五大老の制度が設けられ、石田三成らの五奉行との合議によって政権運営を行っていくことになります。

そしてこの年の8月に秀吉が亡くなると、家康は繰り上がりによって最大の実力を持つことになりました。

秀吉は「秀頼が成人するまでは家康に政治を任せる」との遺言を残しており、権力を掌握する上での大義名分も得ています。

それだけ秀吉から信頼されていたのでしょうが、ここからの家康は自身の権力の拡大と、その先にある政権の樹立に向けて邁進していくことになります。

これは家康の野心の表れとみるか、実力にふさわしいだけの地位を得て、世の中を安定させる責務を背負ったとみるのかは、なかなか微妙なところだと思われます。

秀吉の死後には家康こそが天下を治めるべきと考え、積極的に協力をし始めた、藤堂高虎や大谷吉継といった大名たちもおり、家康はそういった期待に応える立場にもありました。

まだ荒々しい戦国の気風が世に残る中、幼い秀頼では世が治まらないのは明らかで、家康が実力にふさわしい権威を得て天下を掌握するのは当然だ、とする見方も存在していたのです。

大名たちとの婚姻

家康は秀吉が死去すると、やがて各地の大名たちと婚姻を行い、派閥づくりを開始しています。

この時に伊達政宗、黒田長政、福島正則、加藤清正、蜂須賀至鎮らの有力な大名たちと縁戚関係になっています。

しかし秀吉が1595年に秀次を粛清した際に、大名家同士での結婚を禁止しており、家康はこれを破ったことになります。

これが前田利家や石田三成の反発を招き、彼らは徒党を組んで家康を糾弾してきました。

この時に大坂の家康と利家の屋敷に、それぞれを支持する大名たちが集まる騒ぎとなります。

1599年の2月に家康と利家は誓紙を交わし、互いの屋敷を訪問することで武力闘争に発展する前に事態を収拾しています。

利家は武将たちの間で人気が高く、家康の娘婿となっていた加藤清正までもが利家の元に参じています。

さらに石田三成らの奉行衆も利家方に加わっていたことから、あなどれない勢力となっていました。

秀吉はそのあたりの利家の人望を見越して、家康の対抗軸にするべく、事前に高い権威も与えていたようです。

しかし翌3月になると、かねてより病を抱えていた利家が死去し、戦わずして家康のライバルがいなくなります。

利家の死後には家康と争える格の持ち主は誰もおらず、天下取りへの道を阻むものはいなくなりました。

家康の健康への配慮

こうして秀吉も利家も先に世を去りましたが、これらの人物たちに比べて家康が壮健なことには理由がありました。

家康は健康に気を配っており、現代のスポーツがわりに鷹狩をして、体を動かすことを怠りませんでした。

その他にも剣術や馬術、鉄砲術などの武術も多数習得しており、それらの活動も体を強壮に保つ上で役に立っていたと思われます。

また、医学にも通じていて、自ら薬を調合し、体調の変化に応じてそれらを服用していました。

江戸で細川忠興が倒れた時に、その病状を聞いて診断し、薬を処方して命を助けたという挿話もあるほどで、専門家並の知識を備えていました。

食事も節制しており、決して贅沢な食事にふけって体を壊すことはありませんでした。

そういった気配りによって、後に73才になった時にも戦場で指揮ができるほどの寿命と健康を保ち、生涯を現役で過ごしています。

このあたりの分野では、家康は現代人に近い意識を備えていたことになります。

それが徳川氏が天下を制する上で、大きな原動力になっていきます。

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