方広寺鐘銘事件
1614年に豊臣氏は家康の勧めを受け、方広寺の再建事業を行っていました。
家康はこの事業に莫大な費用を使わせ、秀吉の時代に蓄積された豊臣家の財産を消費させようという狙いをもっていました。
この時に工事の奉行を務めていた片桐且元は、鐘の銘文を清韓という僧侶に選ばせ、これを刻みつけさせました。
そしてそれを家康に連絡し、寺を開くための開眼供養の日取りを相談しています。
すると家康から「銘文に問題があるから差し止めよ」との命令が届きました。
問題となったのは「国家安康」という文言で、これは「家」と「康」の字を切り離して用いており、家康を呪う意図があるのではないか、というのが差し止めの理由でした。
清韓は「家康様の名を安易に用いたのは軽率だったが、祝意こそ込めたものの、呪うつもりはなかった」と弁明しますが、受け入れられずに捕らわれてしまいます。
異なる対応
片桐且元もまた、弁明のために駿府におもむいて家康に会おうとしますが、許されずに窮地に陥ります。
一方で、淀殿は側近の大蔵卿局を家康の元に派遣しますが、こちらは簡単に会見が許されました。
そして家康は「鐘銘のことなど気にしていない」と言って安心させ、大坂城に送り返します。
しかし片桐且元が家康の家臣に会ってから大坂に戻ると、まったく別の話をしました。
その話とは、秀頼が江戸に参勤するか、淀殿が人質として江戸に赴くか、国替えを受け入れて大坂城から退去するかを選べというもので、豊臣氏にとっては受け入れがたい厳しい内容でした。
受け入れると豊臣氏の権威は完全に失墜することになり、逆に徳川氏の天下は安泰なものとなります。
淀殿はこれに怒って要求を拒絶し、且元は裏切り者扱いされるようになります。
先の大蔵卿局の話と食い違っていたため、且元は家康に内通して豊臣氏に不利な話を捏造しているのではないか、と疑われました。
そしてついに且元に対する暗殺計画が持ち上がり、且元は大坂城を退去することを決意します。
退去した後、淀殿らは且元の屋敷を打ち壊し、その領土を取り上げることを通達しました。
交渉の窓口になっていた且元を追放したことで、決裂したと家康は判断し、ついに豊臣氏討伐の戦いを始めることにします。
この時の家康は72才でしたが、徳川の世の安定をもたらすため、最後の戦いに赴くことになります。
豊臣氏の取り扱いと、最後の判断
これまでに家康は何度も豊臣氏の臣従を試みていましたが、最終的には攻め滅ぼすことを決断したようです。
初めから滅ぼすつもりで、じわじわとそれを可能にする体制を作り上げていったのか、それとも滅ぼすことも可能な情勢ができあがったから滅ぼす気になったのか、このあたりは定かではありません。
ただどちらにしても、豊臣氏をそのままにしておけば、徳川氏の統治に乱れが発生した際に、豊臣氏の当主を担ぎ上げ、反乱を起こす者が現れる可能性が残されることになります。
かつて天下を制し、徳川氏も臣従させていたという過去がありますので、反徳川の象徴として、豊臣氏ほどふさわしい存在はありませんでした。
しかもその本拠の大坂城は京都のすぐ近くにあり、大坂城を拠点に兵を挙げてこれを抑えれば、朝廷もまた徳川氏の敵となり、朝敵の汚名を着せられる可能性がありました。
そうなれば、徳川氏の天下は覆されるかもしれません。
西国には毛利氏や島津氏が健在でしたし、いつ西側から徳川氏の覇権を崩そうとする者が現れるか、わかったものではありません。
このために家康は秀頼と淀殿に、大坂城から江戸に移るようにと要求したのでしょう。
江戸で監視下においておけば、こういった陰謀の発生が防げるからです。
これをあくまでも拒んだことから、最終的に豊臣氏を滅ぼすことにしたのだと思われます。
家康が抱いていたであろうこの危惧は、幕末に実現することになります。
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