天下普請によって諸大名を従わせる
家康は豊臣氏の臣従を試みる一方で、諸大名に築城を盛んに行わせ、労力と費用を盛んに拠出させていきました。
こういった事業は「天下普請」と称されており、公のものとして行われため、諸大名はこれを断ることができませんでした。
この政策によって諸大名の財力を削減するのと同時に、徳川氏の命令に従うことに慣れさせて行きます。
こうした政策は過去に秀吉が伏見城などで行っており、それを模倣したのだと思われます。
家康は江戸城を始め、駿府城や名古屋城、伊賀上野城、丹波亀山城などを次々と築城・改修していきました。
名古屋城は家康の側室の子・義直の城であったため、この築城に駆り出された福島正則は、「どうして家康の妾の子の城づくりに励まなくてはならないのだ」と、加藤清正に愚痴をもらしています。
これに対し、加藤清正は「不満があるのなら国元に帰って兵を挙げる支度でもするのだな」と言ってたしなめました。
この頃には徳川幕府の権威も実力も他の大名を圧倒しており、これに逆おうと考える者はいなくなっていきました。
こうして諸大名たちは、少しずつ徳川氏の支配に服従していったようです。
同時に、これらの城は大坂や京都を包囲するようにして配置されており、将来の豊臣氏の挙兵に備えたものだったとも言われています。
この工事には城下町の整備事業も含まれており、各地が発展するための礎にもなりました。
この天下普請は、諸大名の服従、豊臣氏への備え、各地の徳川領の発展という、一石三鳥の効果をもたらす政策で、実に巧みなものでした。
二元的な統治体制の構築
家康は自らの主導によって、西国の諸大名の監督を行いました。
西国には毛利氏や島津氏などの関ヶ原で敵対した大名や、加藤清正や福島正則らの豊臣氏と関係の深い大名たちが配置されており、反乱を起こされぬよう、対応には気を配る必要がありました。
このため、経験豊富な家康が西国の統治を担当し、将軍となった秀忠には、比較的監督しやすい東国の統治が委ねられました。
家康はさらに、本多正信らの経験が豊富な人材を秀忠につけて政務を補佐させ、同時に若手の育成も行っています。
この時に秀忠に付けられた土井利勝や酒井忠世らが、初期の幕府の政治を担う人物に育っていきます。
こうして自分の死後も幕府の統治体制が崩れないよう、ぬかりなく人材の育成を行いました。
家康の先を見越した措置が、徳川幕府の権力の維持を可能にしたのです。
譜代と外様の差別化
家康は長年徳川氏に仕えている家臣たちを譜代(ふだい)として扱い、後から仕えた大名たちを外様として待遇に差をつけました。
譜代の家臣たちは幕府の政治に参加できるかわりに、領地は少なく押さえられています。
井伊氏の30万石は例外的で、幕閣でもその領地はせいぜい10万石程度のものでした。
これによって謀反を起こせるだけの実力を持たせないようにし、権力の濫用が起きることを防いだのです。
一方で外様は、領地は数十万石も与えられている場合もありましたが、政治の中枢には参加させず、大きな影響力を持てないように押さえつけました。
こうした差別化によって、徳川氏の支配体制は、各地が分割統治される封建主義の割には、かなりの安定を見せることになります。
このあたりの家康の体制構築の手腕は、並外れて優れたものだと言えます。
これには各地の大名に大きな権限を与えた結果、あえなく崩壊した秀吉の政権や、家臣に大きな軍権を持たせたため、謀反を起こされた信長の轍を踏まぬよう、家康が対策を考えた結果として生まれた仕組みなのだと思われます。
家康は学ぶことに長けており、他人の成功や失敗を見て、自分の行動にそれを素直に反映させられる、聡明な人物でした。
独創性のある天才ではありませんでしたが、優れた理解力と実践力を備えた秀才だったと言えるでしょう。
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