徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

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石田三成の失脚

利家が死去すると、かねてより朝鮮討ち入りの際の軍目付たちの動きに不満を持っていた加藤清正や福島正則、細川忠興らの7人の武将たちが結託し、石田三成を襲撃する事件が発生しました。

三成は佐竹義宣に助けられて伏見城に逃れ、そこで抗戦しますが、家康が仲裁に入って騒ぎを鎮めます。

七将たちからは三成の身柄を引き渡すように要請が来ていましたが、これは退けています。

しかし家康はこの時に、三成の行いが騒動を引き起こしたのだと裁定を下して奉行を辞任させ、近江の領地に蟄居させます。

こうして家康は清正らの動きを利用して、自分に敵対する三成を政権の中枢から排除することに成功しました。

同時に清正や正則といった秀吉子飼いの家臣たちの取り込みに成功し、自派閥の勢力を大きく拡大しています。

この時に秀吉の妻・北政所が両者の間を取りもったことにより、家康の裁定は豊臣政権の承認を得たとみなされ、権威の向上にもつながりました。

また、小早川秀秋に対し、半減された領地を元に戻す裁定を行っており、この行いが後に家康に大きな利益をもたらすことになります。

家康は9月になると増田長盛や長束(なつか)正家ら、残る奉行衆の要請を受けて大坂城・西の丸に入って政務を執り、三成が不在となった豊臣政権の中枢を掌握します。

こうして秀吉の死からわずか1年ほどで、家康の権勢は並ぶものがないほどに高まりました。

前田利長を屈服させる

家康は大坂城に登城した際に、増田長盛から前田利長ら4名の武将たちが家康の暗殺を企んでいるとの報告を受けます。

家康はこれを受け、前田利長に対する討伐軍の派兵を計画します。

利長は利家の嫡子で、その死後に五大老の地位を継いでいました。

利長には利家ほどの勢威はなく、家康によってすぐに追い詰められていきます。

利長討伐のため、越前口に大谷吉継が率いる軍勢が侵入しはじめると、利長は戦端が開かれる前に家康に従うことを決断し、実母の芳春院(おまつの方)を人質として江戸に送っています。

以後、前田氏は家康に忠実に従うようになり、家康は五大老の制度を崩壊させました。

この暗殺計画が発覚する直前に、家康は利長に金沢への帰国を勧めて大坂から遠ざけており、不在の間に利長が陰謀を企んだという、でっち上げを行ったのだと思われます。

この時に処罰された武将たちはいずれも後に許されており、暗殺を企んだ罰にしてはその処分が軽かったことが、陰謀が虚偽であったことの証拠だと言えます。

このように家康の陰謀は見え透いたところがあり、それが後世からの家康への印象を悪くしている要因となっています。

家康は天下取りを目指し始めた時まではほとんど謀略を用いたことがなく、それが家康の策を稚拙かつ、強引なものにしてしまったようです。

秀吉も天下取りを始めた時から様々な謀略を用いるようになりましたが、権力を掌握しようとすれば、汚い手を使うことが避けられなくなるのかもしれません。

それは個人の性格とは関わりなく、天下取りの活動の側が、それを達成しようとする者に、謀略の行使を要求するのだと思われます。

天下を取るという並外れた行いは、きれいごとだけでは達成できないものなのでしょう。

上杉討伐

前田利長を屈服させた家康は、次に残る五大老の一人、上杉景勝を従わさせることを試みます。

1600年になると、東北の諸大名たちから上杉氏が軍備を増強しているとの報告が届いており、家康は景勝に対し、大坂に上洛して弁明するようにと要求します。

すると景勝の重臣・直江兼続から、「武家が軍備を整えるのは当然のことであり、咎める方がおかしい。問題があると思うのなら攻めかかってくるがよい」といった内容の書状が送りつけられ、家康は挑発を受けます。

(この「直江状」と呼ばれる書状には、偽作説もあります)

家康はこれを受けて上杉氏の討伐を決意し、朝廷と秀頼の承認を得た上で諸大名に動員をかけました。

公式な討伐軍であったため、表立って反対するものはいなくなり、多数の大名たちが参加を表明しました。

家康は彼らに関東での集結を命じ、6月に大坂城を出ると、7月には江戸に到着しています。

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