寝返り工作の効果
しかし関ヶ原の南にある松尾山に布陣していた小早川秀秋と、南宮山の毛利軍を指揮する吉川広家は既に家康に通じており、これは敵とみなす必要がありませんでした。
他にも藤堂高虎が4千ほどの小大名の連合体を寝返らせるなどしており、西軍の実数は3〜4万程度でした。
このため、家康は7万5千の軍勢でも十分に勝利できると判断したのでしょう。
ただし、戦場で人の心がどのように変動するかはわかったものではなく、この戦いには賭博的な要素が大いに含まれていました。
家康にせよ三成にせよ、この一戦に生涯の浮沈がかかっていただけに、ともに張りつめた気持ちで戦いに臨んでいたことでしょう。
開戦
9月15日には各部隊の配置が完了し、開戦を待つばかりの状況になります。
家康は先鋒を福島正則に任せ、西軍の中で最も戦意の高い宇喜多秀家隊に当たらせます。
そして西軍の首謀者である三成隊には、遺恨のある黒田長政や細川忠興の部隊を割り当てました。
この日は早朝から霧が出ており、偵察をしていた井伊直政と松平忠吉の部隊が西軍と不意に接触し、そこから戦闘が開始されます。
福島正則は果敢に宇喜多秀家隊に攻めかかりますが、6千対1万5千と、戦力に大差があったため、一進一退の攻防戦となります。
黒田長政や細川忠興も三成に攻めかかりますが、こちらは三成の先鋒大将・島左近らが善戦したことで、同じく戦況が膠着します。
南の方では藤堂高虎が大谷吉継と戦っていましたが、こちらも互角の展開で、容易に西軍を突き崩すことはできませんでした。
もともと西軍の側が先に布陣して有利な地勢を占めていたこともあり、東軍は序盤に苦戦を強いられています。
家康は戦闘が開始すると、間もなく徳川軍を前線に移し、そこで戦況を見守ります。
三成の合図
三成は戦況が優勢なのを見て、小早川秀秋や吉川広家など、南方に布陣する諸将に攻撃を開始するように促しました。
もしも彼らが動いていたら、東軍は包囲されて壊滅していたことでしょう。
しかし両者はいずれも動かず、沈黙を守っていました。
業を煮やした三成は、こちらも戦意が薄かった島津義弘の陣営を直接訪れて攻撃参加を促しますが、拒絶されています。
義弘は先日、まだ足並みの揃っていない東軍に夜襲をしかけることを提案していましたが、これを三成がにべもなく却下しており、それを遺恨に思って要請を聞かなくなってしまっていたのです。
三成は頭は良くとも人の心をつかむのが苦手な人物で、この肝心な決戦の場においても、諸将をまとめることができていませんでした。
このため10万の大軍は、そのほとんどが三成に協力的ではありませんでした。
小早川秀秋の寝返り
一方で、戦況が思わしくないことから家康は苛立つようになり、本陣に間違って騎馬武者が乗り入れてしまうと、刀を振るってこれを追い払うというふるまいに出ています。
そして寝返りの約束をしておきながら、いっこうに動こうとしない小早川秀秋に対し、使者を送って早急に寝返りを実行するようにと促します。
小早川秀秋は安全な山上から様子見を決め込んでおり、どちらが有利になるかを見極めてから動くつもりでいたようです。
家康は我慢の限界に達したのか、最後には鉄砲を松尾山に向かって撃ちかけています。
正午ごろになると、家康の怒りを感じたのか、ようやく小早川秀秋が率いる1万5千の部隊は松尾山を下り始め、近くに布陣していた大谷吉継隊に攻めかかります。
吉継はあらかじめこの秀秋の裏切りを予測しており、用意しておいた予備隊で攻撃を防ぎます。
そして5千の兵しか率いていなかったにも関わらず、秀秋の部隊を数度に渡って松尾山に追い返すという、見事な働きを見せます。
しかしこの時、藤堂高虎の調略を受けていた脇坂安治らの諸将が寝返り、大谷隊は藤堂・脇坂・小早川隊の三軍から同時に攻撃を受ける状況となり、防衛しきれなくなって壊滅しました。
これをきっかけにして西軍は順次崩壊してゆき、宇喜多秀家や小西行長、そして三成も戦場を放棄して逃走しています。
途中までは互角の戦いでしたが、秀秋の寝返りによって一気に均衡が崩れ、東軍が圧倒する展開になりました。
【次のページに続く▼】