徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

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堺見物と本能寺の変

家康は安土から各地を回って観光し、6月2日には堺の街に到着していました。

その滞在中に、悲報に接することになります。

それは信長が京都の本能寺で、明智光秀に討たれたという知らせでした。

これを聞いた家康は狼狽し、自害をして信長の後を追おうとします。

信長を兄とも慕っていたと言われており、今川義元の時と同じく、その死の衝撃は大きなものだったのでしょう。

しかし本多忠勝に説得されて立ち直り、領国へと撤退することにします。

この時に護衛に加わっていた服部半蔵の進言を受け、伊賀経由で三河を目指すことになりました。

神君伊賀越え

家康に随行していた供はわずか34名でしたが、歴戦の武将たちが顔を揃えており、精鋭ぞろいではありました。

酒井忠次・石川数正の重鎮に加え、本多忠勝・榊原康政・井伊直政らの主力武将たちもこの人員に加わっています。

しかし逆に言えば、徳川氏の中心人物たちが全て集まっていたため、もしもこの時に全滅していたら、徳川氏の勢力は取り返しがつかないほどに衰退していたでしょう。

この時、一行に商人の茶屋四郎次郎が同行していたことが幸いし、彼が行く先々で銀子をばらまき、戦闘の発生を抑えることができました。

また、信長につけられた接待役の長谷川秀一も、大和や近江の地侍たちへの取り次ぎを行い、道中の安全を確保しています。

しかし時には戦闘が避けられなかったようであり、一行は堺から伊賀を抜けるにあたり、200人程度の雑兵を討ち取ったという記録が残っています。

こうして家臣と同行者たちの協力を得て無事に伊賀の突破に成功し、伊勢にまでたどり着きました。

そこで商人の角屋七郎が伊勢から三河への船を手配し、家康は無事に自身の領国まで帰還しています。

これは後に「神君伊賀越え」と呼ばれ、家康の生涯の中でも最大の危機のひとつに数えられています。

甲斐・信濃争奪戦

家康は三河に戻ると軍勢を集め、信長の仇を討つべく光秀の討伐に乗り出します。

信長の死によって天下の情勢は不透明なものとなり、家康にとっては中央政界に乗り出すための好機でもありました。

しかし尾張に入ったあたりで知らせが届き、既に羽柴秀吉によって明智光秀が討たれたことが伝えられます。

やむなく家康は軍を引き返させますが、信長の死の影響で、今度は甲斐と信濃で動乱が発生しました。

武田氏を滅ぼしたのはわずか3ヶ月前のことで、織田氏の支配が始まったばかりで信長が急死したため、各地で反乱が勃発したのです。

信長から甲斐の領主に任命された河尻秀隆は一揆勢に攻め滅ぼされ、信濃を任された森長可らは領地を捨てて逃走しました。

こうして甲斐と信濃は空白地帯となり、家康はこの2カ国を押さえて勢力を伸ばすことを目指します。

甲斐と信濃の三つ巴

家康は元武田氏の家臣・岡部元綱を甲斐に、依田信蕃(よだのぶしげ)を信濃中部に侵入させ、同地の確保をもくろみます。

さらに重臣の酒井忠次に命じて信濃南部を制圧させ、自身は8千の兵を率いて甲斐に入り、その大部分を掌握しました。

一方で関東の北条氏もまた甲斐や信濃に侵入しており、甲斐の東部と、信濃中部にある佐久郡を確保しています。

北信濃には上杉景勝の軍勢が侵入し、こちらは川中島以北を制圧しました。

こうして甲斐と信濃には徳川・北条・上杉の3勢力が入り込み、三つ巴の争いを演じることになります。

北条氏と上杉氏の和睦

佐久郡を抑えた北条氏は信濃を北上していき、川中島付近で上杉軍と対峙します。

この時に佐久郡で依田信蕃がゲリラ戦を展開し、北条氏の兵站を脅かしました。

さらに徳川軍が南信濃と甲斐から北上を始めたことで、北条軍は挟み撃ちに合う危険に晒されます。

このため、北条氏と上杉氏の間で和平交渉がなされ、川中島以北は上杉領となり、以南は北条氏の切り取り次第、という約定が交わされます。

こうして北信濃の情勢は落ち着きを見せ、北条氏と徳川氏の抗争が残されることになりました。

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