徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

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北条軍の撃退と真田氏の活躍

この時の北条軍は6万近い大軍で、対する家康の軍勢は8千程度でした。

北条軍は徳川軍を包囲するため、三方に軍勢を分けて進軍し、甲斐に侵入して家康の本隊と対峙します。

そして北条氏忠が率いる1万の軍勢が、家康の背後を突くべく甲斐の東部を進軍します。

この時に家康の重臣・鳥居元忠が2千の部隊で迎撃にあたり、5倍の北条軍に300の死傷者を出させて勝利します。

少数で北条軍を撃破したことから、家康の軍勢はかなり精強なものとなっていたことがうかがえます。

長年の武田氏との戦いによって、そのような強さを身につけたのかもしれません。

この戦勝によって信濃の諸将が家康に味方するようになり、数の不利が覆っていきます。

8月には木曽義昌が家康側に寝返り、さらに9月になると依田信蕃の勧誘を受けて真田昌幸も寝返ります。

そして昌幸は北条氏に譲っていた上野(群馬県)の沼田城を奪取し、信濃と関東の連絡を断ち切りました。

兵站を絶たれた北条軍は、沼田城の奪取を狙って攻撃するものの、真田氏一族の激しい抵抗を受けてこれを果たせず、戦況が悪化していきます。

北条氏との和睦

10月になると、依田信蕃が北条氏の重臣・大道寺政繁の撃退に成功し、情勢はさらに徳川方に有利になっていきます。

そして小笠原貞慶が旧領の信濃・深志の地を奪取して家康に従属します。

さらに関東でも常陸(茨城県)の佐竹氏が北条氏の領地に侵攻してきました。

こうして不利が重なったことから、北条氏の当主である氏政は、これ以上の継戦が困難であると判断し、家康に和睦を申し入れます。

この結果、北条氏直(氏政の子)に家康の娘の督姫を輿入れさせることと、甲斐・信濃は家康の、上野は北条氏の切り取り次第とすることで決着します。

こうして和平が成立し、家康は甲斐と信濃を新たに領国に加え、一躍5カ国を支配する大大名の地位を手に入れました。

これで家康の領地の石高は150万石となり、3万7千程度の兵力を動員できるようになっています。

信長の死が、思わぬ形で家康を飛躍させたことになります。

しかし上野を北条氏の領地としたことが、後に真田昌幸との間に抗争を生む原因にもなっていきます。

秀吉の台頭と織田信雄との対立

家康が甲斐と信濃を確保したころ、畿内では羽柴秀吉が台頭していました。

信長の死の際には中国地方を担当する一軍団長の立場でしたが、明智光秀を討って信長の仇討ちに成功したことから発言力が増大し、京都周辺を抑えてその勢力を大きく拡大しました。

そして織田家筆頭の家臣であった柴田勝家との争いに勝利し、信長が築いた基盤の継承に成功しています。

そして自らの政権を立ち上げるべく、信長の次男・織田信雄を従属させようとしますが、信雄はこれに反発して秀吉と対立するようになっていきます。

この頃までに秀吉は、中国地方の東半分と畿内に加え、北陸も抑えており、10万もの大軍を動員できるほどの実力を手に入れていまいた。

信雄は伊賀と伊勢、尾張あたりに領地を持っていましたが、その兵力は2〜3万程度のもので、とても単独で秀吉に対抗できる状況ではありません。

このため、信雄は亡父の同盟相手であり、五ヶ国を支配する大勢力となっていた家康に協力を要請してきました。

家康も信長の家臣に過ぎなかった秀吉の天下を認める気にはなれなかったようで、これに応じて秀吉と戦うことを決断しました。

信長が死んだ今、その天下取りの志を継ぐのは盟友であった自分であるべきだ、という意識を持っていたのかもしれません。

これまで家康は信長に協力する一地方大名であるに過ぎませんでしたが、この時に初めて天下争奪戦の舞台に登ったことになります。

外交戦

家康と信雄の勢力を足してもなお秀吉には及ばないため、家康は外交によって味方を増やしていきます。

越中(富山県)を支配する元信長の家臣・佐々成政や、紀州に勢力を持つ雑賀・根来衆、四国を支配する長宗我部元親らと同盟を結び、秀吉の領国を包囲する体制を作り上げます。

後背地となる関東の北条氏とはすでに同盟を結んでおり、余裕ができたら援軍を送ってもらう約束をしていました。

このあたりの動きを見るに、家康はいつの間にかかなりの外交巧者になっていたようです。

信長が存命時には隠れていましたが、家康には十分に天下を狙えるだけの資質が備わっていたことが、この時に証明されています。

こうして秀吉に対抗しうる状況を作り上げると、家康は自らも軍を率いて秀吉軍と対決しました。

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