織田信長との同盟
家康は1562年になると、尾張の織田信長との間に同盟を締結しました。
松平氏と織田氏は、長年に渡って西三河をめぐって争ってきた間柄でしたので、家康の独立後も小競り合いが続いていました。
しかし西の織田氏と、東の今川氏の双方と争い続けるのは得策でないと家康は判断したようで、母の兄・水野信元の仲介によって信長と和解しています。
この時に尾張の清州城で会見が行われたことから、これは「清洲同盟」と呼ばれています。
この和睦によって家康は三河の平定に集中できるようになり、信長は北の美濃の攻略に集中できるようになりました。
相互に利益のある同盟でしたが、互いにその目的を果たした後も堅持され、信長が死を迎える時まで継続することになります。
この時代の同盟は短期間で破られることも珍しくありませんでしたが、20年にも渡って信長との関係を守ったことで、「家康は律儀である」という評判を得ることになりました。
また、水野氏との関係が改善されたことから、この頃に母の於大が家康のところに戻ってきています。
こうして家康は独立を果たし、盟友を得て、母が戻ってくるという、人生の大きな転機を迎えました。
家康への改名
1563年になると、名前を元康から家康に変更します。
義元からもらった「元」の字を捨て去ることで、今川氏との関係を絶ったことを、より鮮明に表現するための措置でした。
「家」の字をどうして採用したのかは定かではありませんが、平安時代の源氏の棟梁・源義家にあやかったという説や、書経の語句から採用した、という説があります。
ともあれ、こうして「松平家康」と名のりを変え、三河の統一事業を継続していくことになります。
三河の一向一揆
三河の統一を推し進めていくうちに、やがて家康は一向一揆の反抗を受けることになります。
一向一揆は浄土真宗の信者集団を母体とする領主への反抗勢力で、この時代にはいくつかの地域や国を支配するほどに強勢でした。
家康の家臣が浄土真宗の本證寺(ほんしょうじ)に侵入した無法者を捕縛した際に、守護不入という特権が侵害されたと訴えられます。
守護不入とは、寺院などに武家が立ち入って権限を行使されることがないという、治外法権的な特権のことをいいます。
本證寺の呼びかけ一向宗の宗徒たちが応えて立ち上がり、反家康を掲げる勢力が三河に誕生します。
これに家康の三河支配の拡大に反感を持っていた豪族たちが加わり、松平氏の家中を2つに割る大規模な闘争に発展しました。
この時に本多正信や夏目吉信ら、一向宗の信徒の家臣たちも反乱に加わり、「犬のように忠実」とまで言われた三河武士たちが敵に回ったことで、家康は窮地に陥ります。
もともと松平氏は、一向宗の信徒であった武士団を取り込んでその勢力を拡大してきた背景があり、このために武士としての忠誠を大事にするのか、信仰する宗教を大事にするのかで、家臣たちの対応が割れることになったのです。
一揆の鎮圧
今川氏に味方する勢力も加わったことで一揆勢はさらに力を増し、一時は岡崎城にまで攻め込むほどの勢威を振るいました。
しかし1564年の決戦に勝利したことで、戦況は家康側の有利に傾き、和議を行って一揆を解体させます。
反抗した家臣たちに帰参を許す寛大な処置をとったため、その多くは一揆を離脱して家康の元に戻ってきました。
こうして一揆を鎮めると、家康は一向宗の寺院に改宗を迫り、これを拒んだ寺院は破却して、三河での一向宗の布教を禁じる措置を取りました。
この一連の動きは三河の反抗勢力の撲滅にもつながり、最終的には家康の三河支配を確固たるものにしています。
一時はかなりの危機にみまわれたことから、この事件は家康の三大危機のひとつに数えられています。
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