徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

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秀頼と淀殿の死

決戦の前に、真田信繁は秀頼自らが出陣して、全軍の士気を高めるようにと要請していましたが、淀殿の強い反対にあって実現しませんでした。

重臣の大野治長が秀吉の馬印を掲げて城外で待っていたのですが、秀頼の出陣が沙汰止みとなったために城内に引き下がっています。

この時に馬印をそのままにして城内に入ったため、秀頼が敗れて城内に撤退したのだという誤解が広まり、大坂城に残っていた将兵たちが動揺し、内部からの崩壊が始まります。

城内の浪人たちは略奪を始め、あちこちに放火するなどの乱暴を働くようになり、豊臣軍からは完全に統率が失われました。

淀殿と秀頼は城内の山里丸に逃れ、そこで千姫の身柄の引き渡しと引き換えに助命を嘆願しますが、既に時遅く、家康からは受け入れられませんでした。

そして戦場から撤退していた毛利勝永の介錯によって、淀殿と秀頼、そして側近たちはみな自害しました。

こうしてついに、豊臣氏は滅亡しました。

豊臣氏の痕跡を消し去る

家康は豊臣氏の影響力を完全に消し去るため、大坂城をすべて埋め立てさせました。

また、秀吉が死後に得ていた「豊国大明神」という神号を廃止させています。

そして秀頼の子・国松丸を処刑し、娘を寺に入れる措置をとって秀吉の血統を根絶しています。

秀吉の血を継ぐものが生きていると、誰かが担ぎ上げて徳川氏への反乱を起こすことがありえたからです。

こうして家康は徳川政権を崩壊させうる可能性を徹底的に排除し、264年も続くことになる長期政権の基盤を、ついに築き終えました。

一連の豊臣氏に関する措置からは、家康の執念とも呼べそうな強い意志が感じられます。

最後の政策

豊臣氏を責め滅ぼした後、家康は禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定し、公家や僧侶の動きに制約を設けました。

そして彼らを、天皇から大権を移譲された幕府に従わせるようにしています。

豊臣氏という徳川氏への対抗軸が失われ、反抗者が生まれる危惧が薄れたため、こうした措置が可能となりました。

また、武家諸法度や一国一城令を出し、各地の大名たちの統制を強化しています。

武家諸法度は大名たちの行動を制限するもので、新しく城を築くことや、大きな船を作ることなどを禁じ、その軍事力を抑制しました。

また、一国一城令によって各地の防衛拠点を破棄させ、領国にこもって幕府に抵抗できないようにもしています。

こうして諸大名が反抗できる余地を奪い、日本全土の支配体制を確固たるものにしました。

家康は自身の命が続くうちに、やるべきことはすべてやり遂げたことになります。

これが信長と秀吉との差となって、徳川氏による戦国時代の完全なる終焉を成功させる要因となりました。

その死

豊臣氏を滅ぼしたその年のうちに、家康は新たに隠居城の整備を計画しており、間もなく訪れる死を予期してはいなかったようです。

家康は翌1616年の1月に鷹狩を行いますが、この時に倒れ、急激に体調を悪化させていきます。

たいの天ぷらに当たったという俗説がありますが、倒れてから3ヶ月ほど生存しているため、今ではこの説は否定されています。

どうやら胃の病気だったようで、お腹に大きなしこりができ、吐血もしていたという記録が残っています。

こうして老いてなお、戦場に赴けるほど壮健を保っていた家康もついに力尽き、4月17日に死去しています。

享年は74でした。

天下を安寧に導く上で、やるべきことはやり遂げた、完成された生涯だったと言えます。

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