徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

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三方ヶ原の戦い

徳川と織田の連合軍は、その日の夕方に三方ヶ原に到着しますが、信玄はこの追撃を予想しており、準備万端で待ち構えていました。

信玄は3万の軍勢に中央突破を狙う魚鱗の陣を敷かせ、坂の上で待機していました。

これを見た家康は自分の作戦が読まれていたと気づきましたが、既に時遅く、やむを得ず包囲陣形である鶴翼の陣を敷きます。

ただでさえ3倍近い戦力差があった上に、敵は屈強な武田軍であり、さらに坂の上という有利な地勢まで抑えられていました。

そのまま両軍は激突しますが、徳川・織田連合軍はすぐに切り崩されてしまいます。

鳥居四郎左衛門や本多忠真らの武将を失って前線が崩壊し、家康の身にも危機が迫ります。

この時にかつて三河の一向一揆の際に家康に反抗し、許されて帰参していた夏目吉信が、家康の兜と馬を用いて敵中に突入し、家康の身代わりとなって戦死しました。

家康はそういった犠牲を払っても、なお武田の騎馬武者に追撃を受けましたが、自ら馬上から弓矢を放ってこれを撃退し、辛うじて浜松城へと逃げ込むことができました。

これには本多忠勝が奮戦し、追撃を阻んだことも影響したようです。

夕方から夜になるまで2時間ほどの戦いでしたが、徳川軍は2千という多大な死傷者を出して完敗しました。

この時に信長の援軍の将・平手汎秀も戦死しています。

浜松城で空城の計を用いる

浜松城に帰還した家康は、城門を開いて篝火をたかせ、周囲に城の様子を見せつけます。

これを見た追撃軍の将・山県昌景は何らかの策があるのかと警戒し、城には突入しないで撤退しました。

家康自身は湯漬けを食べた後に城内で眠り込み、そうすることで城内の動揺を鎮めます。

手痛い敗戦でしたが、その直後にはすっかりといつもの落ち着いた状態に戻っていたようです。

危機に陥ると逆上し、しばらくすると冷静に振るまえるようになる家康の性格は、この時も変わっていなかったのでしょう。

家康は普段はほとんど喜怒哀楽を表に出さず、家臣たちから何を考えているかわからない、と言われるほどでした。

それゆえにいったん感情が激しく吹き出すと、歯止めがかからなくなる傾向がありました。

信玄の死と武田軍の撤退

家康を討ち破った信玄はそのまま三河に進軍し、翌1573年の2月には、要衝である野田城を攻略します。

これによって遠江と三河の重要拠点を奪われたことになり、家康はさらに追い込まれていきます。

しかしこの冬に信玄は発病しており、4月には悪化して死去しました。

武田軍はこのために撤退を始め、家康は強敵の死によって危機を脱しています。

もしも信玄の寿命があと数年残っていたら、この時に徳川氏は滅亡していたかもしれません。

信玄の死は秘匿されていましたが、有利な情勢にありながらも撤退したのは不自然なので、家康はこれに見当をつけて探りを入れます。

武田軍に占領された三河の長篠城を攻め、駿河に侵入しましたが、武田方の抵抗は弱く、これによって家康は信玄の死を確信します。

そしてこの機を逃さず、奪われた領地の奪還を図ります。

長篠城と奥三河の回復

信濃に近い奥三河のあたりには、奥平貞能という有力な国人領主がいました。

奥平氏は信玄の侵攻にともなって武田氏に服属していましたが、家康からの勧誘を受けて再度徳川氏の家臣に復帰しています。

この頃には信玄の死が知れ渡っていたようであり、家康は順調に奪われた奥三河の地を取り戻していきました。

やがて長篠城も取り戻すと、奥平氏にこの城を任せ、武田軍の侵攻に備えさせます。

この2年後には、この長篠城をめぐって大きな戦いが発生することになります。

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