明智秀満は光秀の娘婿で、その重臣として活躍した武将です。
元は三宅弥平次という名で、光秀の小姓として仕えていたと言われています。
三宅氏は美濃の豪族で、明智氏の親類でした。
秀満の生年は1536年だと言われているのですが、諸説あって定かではありません。
【後世に描かれた明智秀満の武者絵】
障子の外を、身をかがめて通る
秀満がまだ弥平次と名のっていた頃、光秀の屋敷を、後に娘婿となる細川忠興が訪ねてきたことがありました。
光秀と忠興が屋敷の一室で対面していると、障子の外で誰かが手を床につき、慇懃に拝礼をしてから通り過ぎていく姿が、二人の目に入りました。
忠興は光秀に「互いに姿が見えないのに、わざわざ障子の外で手をつき、拝礼してから通るとは、ずいぶんと律儀な小姓ですね」と言います。
すると光秀は、誰なのかわからないはずなのに、「あれは三宅弥平次と申す者だ」と言い切りました。
そして実際にその小姓を部屋に呼んでみて、忠興が名をたずねると、果たして「三宅弥平次です」と答えました。
忠興は弥平次の念のいった礼儀正しさと、それを言い当てた光秀との双方に感心して、しきりに称賛したということです。
秀満の人柄と、光秀との関係の深さがうかがいしれる逸話です。
秀吉に会わず
光秀が丹波(京都北部)の亀山城主だった頃、同僚の羽柴秀吉が訪ねて来たことがありました。
光秀は喜んで歓待し、重臣たちを秀吉と引き合わせます。
そして弥平次もその席に呼んだのですが、弥平次は病にかかったと称して顔を出しませんでした。
やがて秀吉が帰路についた際、光秀は見送りのために外出します。
そして城に戻ろうとすると、弥平次が馬を訓練しているところに出くわしました。
さては仮病だったかと気づいた光秀は、「天下に名を知られる筑前(秀吉)にそなたを引き合わせようと思ったのに、仮病を使って顔を出さぬとは、このうつけ者め!」と怒りました。
高名な武将に顔を知られるのは、武士にとって名誉な事でしたので、光秀は弥平次のためを思って秀吉に会わせようとしたのでした。しかしそれを仮病でふいにされたので、気分を損ねたのです。
これに対し弥平次は、「私はよその大名に見知られるのは嫌です。世間の侍は、いずれはその家に仕官しようという下心をもって、諸大名と顔見知りになりたがるものです。しかし私は、明智家以外の大名に仕えようとは思いませんので、他の大名に見知られたところで、何の利益もありません。だから顔を出さなかったのです」と言いました。
これには光秀も言葉がなく、そのまま城に戻っています。
光秀は何も言わなかったものの、弥平次の忠実さに打たれ、娘婿にして一族に迎えたいと考えるようになったようです。
光秀は身分の上下を問わず、家臣を大事に扱っており、このため、光秀に誠実に尽くす家臣が多かったと言われています。
光秀の娘の看病をする
光秀の長女・お藤は摂津の大名・荒木村重に嫁いでいましたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため、離縁されて実家に戻っていました。
そのような過酷な体験をしたためか、お藤は体調を崩して寝込んでしまいます。
この時に光秀は「侍女たちに看病をさせていては心許ないので、そなたが看病をするように」と弥平次に命じました。
そして弥平次の看病のかいあってお藤が回復すると、光秀は「そなたのおかげだ」と言って褒美を与えます。
さらに、お藤と結婚して欲しいと告げると、弥平次はこれを受け入れました。
こうして光秀の娘婿となった弥平次は、明智秀満と名のるようになります。
(光春と名のった、という説もあります)
秀満は丹波の福知山城代になるなどして重用され、光秀の重臣のひとりとして、各地の戦いで武功を立てています。
しかし、やがて光秀が主君の信長に疎まれるようになったため、明智氏は重大な危機に遭遇することになりました。
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