安土城から京に向かう
光秀は信長を討った後、その本拠である安土城を占拠しました。
そして秀満に守備を任せ、近江(滋賀県)方面の抑えとします。
一方で、羽柴秀吉が中国地方から摂津(大阪府)に舞い戻っており、光秀はこれを迎撃する必要に迫られました。
両者は京都の西、山崎の地で決戦を行いますが、光秀は秀吉の半分程度しか軍勢を集めることができず、苦境に陥ります。
このため、秀満は光秀を心配し、安土城を出て京都に向かいました。
しかしその途中で「光秀は敗れ、秀吉に討たれてしまった」という情報が伝わってきます。
そして他の重臣たちも討ち取られ、あるいは捕縛され、明智軍は壊滅したと知ることになります。
琵琶湖を渡る
取り残された秀満は激しく落胆しましたが、ならば明智の領地である坂本城に入り、そこで最期を迎えようと思い、進軍するうちに、秀吉軍の先陣を務める堀秀政の軍勢と行き会いました。
この時、秀満の軍勢は少数でしたので、あえなく討ち破られてしまいます。
さらに街道を敵にふさがれてしまったので、秀満はやむなく、馬を琵琶湖に乗り入れました。
【秀満が琵琶湖を渡る様子を描いた絵】
秀吉軍の兵士たちは湖岸に居座り、秀満が溺れ死ぬありさまを見物しようとします。
しかし、秀満は坂本城に在住していたことがあり、琵琶湖の浅い場所はどこなのかを熟知していました。
それに乗っていた馬が、たくましい大鹿毛の名馬でしたので、無事に湖を渡りきることができ、唐崎浜というところに上陸します。
しばらくの間、松の木陰で休息してから、秀満は馬を走らせて坂本城に向かいました。
やがて坂本城が近くなると、秀満は十王堂という寺院に立ち寄ります。そして馬の手綱を堂につなぎ、「明智秀満に湖水を渡らせし馬なり」と札に書きつけます。
その札をたてがみに結わいつけ、馬と別れると、6月14日に坂本城に入りました。
後にこの馬は秀吉が手に入れ、曙と名づけて重宝し、賤ヶ岳の戦いで悪路を走破する際に騎乗したと言われています。
秀満は光秀が死んだ以上、もはや自分の命も長くないと覚悟をしていました。
ですので、名馬を道連れにし、無駄に死なせることがないよう、由来を伝えて城の外に残したのでした。
これを知った世の人々は、なんと立派な心がけなのかと、秀満を称賛しています。
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