藤原秀郷(俵藤太) 平将門を討ち取った武人の生涯と、その子孫について

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藤原秀郷ひでさとは平安時代に活躍した武人で、関東で反乱を起こした平将門たいらのまさかどを討ち取ったことで知られています。

俵藤太たわらのとうた」という異名を持ち、ムカデ退治の物語の主人公でもあります。

藤原秀郷_竜宮

【藤原秀郷の肖像画】

出身と経歴

通説では、秀郷は藤原氏の北家の出身だったと言われています。

北家とは、有名な道長などを輩出した名門の一族でしたが、秀郷はその支流の出であり、中央にいても出世は望めない状況にありました。

それゆえか、秀郷は下野しもつけ(栃木県)の官人となり、その武名をもって近隣諸国に知られる存在になっていきます。

秀郷は5人がかりでないと引けない弓を、ひとりで引くことができたという伝説があり、相当な剛力の持ち主だったようです。

若い頃はずいぶんと暴れ者だったようで、元は京都にいたのですが、仲間と一緒に罪を犯し、天皇の叱責を受けて関東に流された、という逸話があります。

また、関東に着いてからも、乱行の罪で下野の国府(役所)から追討令を出された、という記録もあり、将門と似通ったところのある人物だったようです。

しかし、秀郷はまがりなりにも名門の血縁者だったため、牢獄につながれるといった、厳しい処罰を受けることはありませんでした。

それに、この頃の地方では、武力を持つ者たちが朝廷の統制を受けず、好き勝手にふるまうようにもなっていました。

朝廷から派遣された役人などに、武勇を誇る秀郷に手出しできる者はなく、自由気ままな生活を送っていたようです。

しかしそのままでしたら、秀郷は一介の地方の武装勢力として終わったでしょうが、939年に平将門が反乱を起こしたのがきっかけとなり、その存在を広く知られるようになります。

平将門の乱

平将門は関東の実力者で、豪族たちの争いが起きると、仲裁を頼まれてそれを鎮める役割を担っていた、親分のような立場にあった人物です。

武勇に秀でていたことから、将門を敵視する親族たちとの争いにも勝利し、名声と実力を蓄えていきました。

将門は関白や摂政など、朝廷の最高位を独占する藤原北家に仕えており、つまりは秀郷の本家の家臣でもありました。

このため、将門と敵対する者たちが「将門は謀反を企んでいる」と朝廷に訴えることがあっても、藤原氏がかばってくれるため、罪に問われることはありませんでした。

藤原氏からしても、将門を手なずけておけば関東に影響を及ぼせますので、都合がよかったのでしょう。

しかしある時、将門はもめごとの仲裁の末に、常陸ひたち(茨城県)の国府を占拠する事件を起こしてしまいます。

すると関東に下向していた興世王おきよおうという皇族が「常陸を占拠してしまった以上、さらに他の国を占拠しても、罪は同じです。いっそのこと、関東八州を全て支配し、朝廷から独立した王国を作ってはいかがでしょう」と将門をそそのかします。

将門はこの進言を受け入れ、ついに939年の12月に「新皇しんのう」という称号を用い、関東で独立を宣言しました。

こうなると、さすがに藤原氏も将門をかばうわけにはいかなくなり、将門は反逆者として討伐を受けることになります。

秀郷は将門に会いに行く

将門は関東各地の豪族に、自分に味方するようにと呼びかけました。

この時に、秀郷も将門はどれほどの人物なのかと気になり、会いに行っています。

秀郷もまた関東では有名人でしたので、将門は秀郷が会いに来たと聞いて喜びました。

しかし、秀郷は将門に会ってみて、軽率で、深い考えのない人物だと見抜き、協力するのはやめてしまいました。

実際のところ、将門は勢いと周囲のおだてに乗せられて独立宣言をしてしまっただけで、どうやって新しい政権を作り、朝廷の追討を退けて維持するかの手段を、何も考えていなかったようです。

【次のページに続く▼】

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平安時代藤原平氏
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