徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

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小牧での対陣

戦端を開くきっかけは、美濃に領地を持つ池田恒興が作りました。

恒興は信長の乳兄弟で、織田氏との関係が深かったことから、信雄に味方するものと予想されていました。

しかし戦いが始まると、実際には秀吉に味方しています。

恒興は1584年の3月に尾張に侵入すると、その北部にある犬山城を占拠します。

家康はこの知らせを受けて直ちに出陣し、尾張の小牧山に布陣しました。

これに対し、秀吉に味方した美濃の大名・森長可(ながよし)が軍を率いて小牧山に接近してきます。

到着したばかりの徳川軍に奇襲をしかけ、その出鼻をくじこうと企んでいたようです。

しかし歴戦の酒井忠次らの部隊がこれを包囲して撃破し、緒戦は徳川方の優位に戦況が進みます。

家康はかつて信長が築いた小牧山城を占拠すると、周囲に砦や支城を建設して防御を固め、信雄と合流して3万の軍勢を駐留させました。

これに対し、秀吉も犬山城周辺の防御を固めさせつつ、自ら10万の大軍を率いて尾張に来襲します。

こうして二人の英傑が直接対峙する、最初で最後の機会が訪れました。

にらみ合いと中入り戦法

両者がともに守りを固めたことから動きが乏しくなり、しばらくは何事もなくにらみ合いが続きます。

すると、先に徳川軍に敗れた森長可が敗戦の恥をそそぐため、家康の領地である三河への侵攻作戦を立案します。

一部の部隊で三河に侵入し、各地を放火するなどして荒らしてまわり、家康の足元を崩そうというのがその狙いでした。

このような、別働隊によって敵の領地に侵入する作戦を「中入り」と呼びます。

秀吉は失敗する可能性も高いこの作戦の採用には難色を示しますが、池田恒興も長可に賛同したたため、やがて押さえ込むことができなくなります。

両者は元々は信長の直臣で、秀吉とは同僚だった間柄なので、頭から押さえつけるのが難しい相手でした。

このため、秀吉は甥の羽柴秀次と、護衛に堀秀政を同行させることを条件に、ついに中入り作戦の実行を承認します。

秀次らを付けたことで2万という大軍に膨れ上がってしまい、この別働隊の進軍は、直ちに家康の知るところとなります。

長久手の戦い

家康は別働隊の動きを知ると、信雄と共に小牧山から1万5千の兵を率い、密かに出陣します。

そして尾張の白山林で休息をしていた羽柴秀次隊8千の背後に接近します。

やがて夜明けごろに奇襲をしかけ、のんきに休息を取っていた秀次隊を壊滅させます。

秀次は取り逃がしましたが、この時に木下祐久ら、秀吉の親類である木下一族の武将を多数討ち取りました。

さらに秀次隊の救援に現れた堀秀政隊3千にも攻撃をしかけますが、こちらは戦上手の秀政の采配によって撃退されています。

しかし秀政は、旗印を見て敵の中に家康がいることに気づき、これ以上とどまると危険が大きいと判断し、友軍である池田恒興や森長可の部隊を見捨てて撤退しました。

家康はこうして孤立した池田・森隊に長久手で攻撃をしかけます。

そして2時間あまりの激戦の末に池田恒興と森長可を討ち取るという、多大な戦果をあげました。

こうして家康は局地戦で大勝を収め、秀吉に手痛い打撃を与えることに成功しています。

秀吉の出陣と本多忠勝の牽制

秀次らが危機に陥っていると知らせを受けた秀吉は、自ら2万の軍勢を率いて犬山城を出陣します。

この時に三河から駆けつけていた本多忠勝が、わずか500の兵を率い、秀吉軍に近づいてその進軍を妨害します。

忠勝はただの一騎で近くの川に入り、馬に水を飲ませる姿を見せて秀吉軍を挑発することまでしています。

秀吉の陣営からは忠勝を攻撃して討ち取るべきだ、という意見が出ますが、秀吉はこれを見逃しています。

伏兵を警戒したのもあったでしょうが、家康のために命を張って秀吉の進軍を防ごうとしていた忠勝の忠義を褒め称え、攻撃することを禁止しました。

秀吉からすれば、そうやって忠勝を褒めることで、これからの武士のあるべき姿を人々に喧伝する意図もあったようです。

野心ではなく、忠誠心を抱いた武士たちが増えてこそ、これから秀吉が築く政権が安定するからです。

こうした、何代にも渡って仕える忠実な家臣を多く持っていたことが家康の強みで、陣営に寄せ集めの感がある秀吉からすると、家康がうらやましくもあったでしょう。

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