信長とともに上洛する
家康が三河を統一した頃には、信長は尾張と美濃の二ヶ国の領主となっており、大大名の地位を確立していました。
信長のもとには朝廷や足利将軍家から援助の依頼が届くようになり、信長はこれを受けて京都への上洛を計画します。
この時に家康も信長の援軍として上洛作戦に参加し、京都にたどり着くと、その弟分として公家たちに紹介されています。
こうして家康は信長を支援しつつ、中央政界とのつながりを持つようにもなっていきました。
そしてこの時に、家康は左京大夫という官職に叙任されています。
遠江への侵攻
1568年になると、甲斐(山梨県)の武田信玄が家康に同盟の締結を持ちかけてきます。
これは今川氏真の領国である遠江に家康が、駿河に信玄が同時に侵略し、分割しようという呼びかけでした。
十分に利益のある話だったので、家康はこれに同意します。
この頃には氏真は遊興にふけり、一部の寵臣に政治を任せっきりにしたことで、すっかりと人望を失っていました。
このため、遠江や駿河の武将たちは、そのほとんどが今川氏を見限っています。
12月になると協定通りに家康が遠江に、信玄が駿河に侵攻します。
信玄はあらかじめ工作を行って有力な国人領主たちを寝返らせておき、短期間で駿府を占拠します。
駿河を脱出した氏真は遠江の掛川城に逃れますが、家康がこれを包囲して籠城戦となります。
この時に朝比奈泰朝という武将が頑強に抵抗したために、籠城戦が長引いていきます。
信玄との手切れ
家康が手こずっているのをみた信玄は、1569年の1月に遠江への侵攻を開始します。
これは協定違反であり、家康は直ちに信玄との同盟を打ち切っています。
信玄は隙を見せればすぐに食いついてくる油断のならないところがあり、信用に値しないと家康は判断したのでしょう。
この時に信玄は同盟を結んでいる信長を通して再考を求めてきますが、家康はこれを拒否しています。
こうして武田氏と手切れになった家康は、氏真と、その同盟相手である北条氏康と協議を行い、氏真に掛川城を明け渡すことを約束させます。
同時に、徳川・今川・北条の3氏が協力し、駿河を奪還した際には氏真を駿河の国主に復帰させる、という条件をつけることで和睦が成立しました。
こうして家康は遠江を手に入れ、2ヶ国を支配する大名となりました。
ここまでは順調に来ていましたが、しかし軍事にも調略にも長けた信玄を敵に回すことになり、以後は13年にも渡って武田氏との苦しい戦いを続けることになります。
浜松に本拠を移す
信玄と敵対したことにより、遠江は対武田の前線地帯となりました。
このため、家康は遠江の引馬城を新たな本拠にするために移動し、浜松城と改名します。
そして三河の守りは石川数正に任せ、正妻の築山殿(瀬名姫)も岡崎城に残しました。
築山殿は今川氏の出身であったため、家康が今川氏から独立したり、これを攻め滅ぼしたことに不満を抱いており、この頃には不仲になっていたようです。
築山殿との間に生まれた嫡男の信康もまた、岡崎城に残して城主を任せますが、彼らを三河に残して家康が単身赴任をしたことが、やがて家中の不和を招くことになります。
姉川の戦い
家康が新たな敵に立ち向かっていた頃、信長もまたその外交関係を変化させていました。
上洛に成功した後、順調に畿内に勢力を拡大していたのですが、同盟相手であった北近江の浅井長政がこれを破棄し、越前の朝倉義景とともに信長に敵対してきたのです。
やがて信長は軍勢を率いて浅井氏の領地を攻め、街道沿いの重要拠点である横山城を包囲します。
この時に家康は信長からの支援要請を受け、北近江まで出陣しました。
やがて浅井長政は朝倉氏の援軍とともに横山城の救援にかけつけ、両軍は姉川付近で会敵します。
この時には互いに1万5千程度の戦力であり、両軍ともに死力を尽くす激戦となります。
家康は戦いのさなかに朝倉軍の陣形が伸び切っていることに気づき、これを勝機と捉えます。
そして旗本先手役の榊原康政に命じて側面を迂回攻撃させ、朝倉軍を壊乱させました。
この乱れはやがて浅井軍にも伝播し、均衡が崩れて浅井・朝倉連合軍は崩壊していきます。
この時に信長と家康の軍勢は、敵の重臣や勇将を何人も討ち取り、多数の死傷者を出させて大きな勝利を飾りました。
家康はこの戦いで配下の軍団の力と、自らの軍略の才を見せつけ、信長におおいに感謝されました。
しかし、信長は他にも石山本願寺などの強敵を多数抱えており、しばらくは包囲網に足止めされ、勢力の停滞が続くことになります。
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