徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

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島津軍の敵中突破

こうして家康は勝利を手に入れましたが、最後になって島津軍が動き出し、東軍の中央を突破して撤退を図るという、強引な手段に出ます。

島津軍が家康の本陣の近くを駆け抜け、家康は自ら刀を抜いて迎え討つ構えを取る一幕もありました。

この時に井伊直政が島津軍を追撃しますが、銃撃を受けて右腕を負傷しています。

また、松平忠吉や本多忠勝も追撃戦の最中に銃撃されており、家康は損害を出すことを恐れて追撃をやめさせています。

このような島津軍の目覚ましい働きがありましたが、いまさら戦況に影響をおよぼすことはなく、毛利軍や、その周辺にいた長宗我部盛親、長束正家らの部隊も順次撤退し、関ヶ原の戦いは東軍の完勝に終わっています。

三成の捕縛と処刑

家康は勝利を収めると、三成ら西軍首謀者たちの捜索を命じます。

そして小早川秀秋らに三成の居城である佐和山城を占領させると、9月21日には三成を近江で捕縛しています。

他の逃走した武将たちも次々と捕縛され、家康は三成と面会した後、死刑場へと送ります。

10月に京都の六条河原で三成と小西行長、安国寺恵瓊が処刑され、家康の勝利が天下に喧伝されました。

結果的には、三成は家康の天下統一に対し、大きく貢献してしまったことになります。

大名たちの処分

こうして畿内の情勢を掌握すると、家康は大坂城に入って西軍に参加した者たちを処分していきます。

まず、西軍の総大将であった毛利輝元は周防・長門(山口県)のみを所有する36万石の大名となります。

事前に毛利氏の罪は問わないと窓口になった吉川広家には通達していたのですが、毛利輝元が四国や九州など、各地で東軍の武将たちを攻撃していたことが判明し、これを咎めて毛利氏の領地を取り上げることにしました。

そして周防や長門を広家に授けると告げますが、広家は輝元に領地を残して欲しいと懇願し、家康はこれを認める形で毛利氏の勢力を大きく削減しています。

また、そもそもの戦役のきっかけとなった上杉景勝は戦後に降伏し、こちらも120万石から30万石にまで領地が削られます。

関ヶ原で勇んで戦った宇喜多秀家は改易の上で八丈島に追放され、五大老だった者たちの勢力は大きく削減されました。

秀忠を苦戦させた真田昌幸は、領地を没収した上で処刑しようとしますが、信幸と本多忠勝の懇願を受け、井伊直政が取りなしたことから助命し、信繁とともに紀州に流罪にしています。

味方の加増

家康に味方した前田利長は120万石に加増され、徳川氏を除くと唯一の100万石超えの大名となります。

家康自身は250万石から400万石に領地を増やし、並ぶもののいない大勢力を築きあげました。

一方で、西軍に味方しなかった淀殿や秀頼を咎めることはありませんでしたが、豊臣氏の直轄の領地は大きく削り、222万石から65万石にまで減少させています。

豊臣氏と西軍の諸将から没収した土地を味方した者たちに配分し、福島正則は安芸(広島県)で49万石を、黒田長政は筑前(福岡県)で52万石を得るなどしています。

また、勝利のきっかけを作った小早川秀秋には55万石を与え、その貢献に報いています。

こうして家康は、徳川氏による支配体制を確立するための、大名たちの領地の再編成を行いました。

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