徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

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野戦築城と勝頼の進軍

信長はこの時、設楽原を通る河川を掘に見立て、丘の斜面を削って鋭角にし、野戦築城を行います。

川の側に木材で作った柵を立て、土塁を築いて防御力を高め、その中に鉄砲隊を配置し、安全なところから狙撃できるようにします。

そのようにして一方的に武田軍を攻撃できる状況を作り、その強力な白兵戦能力を封じようというのが信長の作戦意図でした。

この工事が完了した頃、やがて勝頼が包囲軍3千を長篠城の包囲に残し、残る1万2千を率いて設楽原方面へと進軍してきます。

せっかく野戦築城を行っても、勝頼が攻撃してこなければ無意味になってしまいますが、信長にとっては幸運なことに、勝頼は設楽原に姿を表しました。

信長は「天の与えた好機だ」と感想を述べ、味方に損害を出さずに武田軍を撃滅する作戦を実行に移します。

この時の織田・徳川連合軍は3万8千であり、武田軍は1万2千でしかなく、3倍近い戦力差だったことから、武田軍の重臣たちは勝頼に撤退を進言します。

しかしよほどに自身と武田軍の強さに自信があったのか、勝頼はこの進言を退け、攻撃を強行すると家臣たちに告げました。

これを聞いた重臣たちは、死を覚悟して水盃を交わしたと言われています。

この中には、かつて家康を苦しめた山県昌景の姿もありました。

武田軍の壊滅

勝頼は鶴翼の陣を敷き、自軍を左右に大きく展開します。

そして織田方の野戦城を包囲し、これを殲滅しようという作戦を立てました。

そして山県昌景らの猛将たちが織田・徳川軍の陣に攻めかかりますが、川と柵、土塁の障壁に阻まれ、さしもの武田軍もその力を十分には発揮できませんでした。

防塁の内側からは次々と銃弾が飛んで来るため、ひとつ柵を倒して前進するごとに、多大な損害を出すことを強いられます。

こうして武田軍が苦戦をしていると、やがて勝頼の側にいた中央軍が無断で撤退を始めてしまいます。

中央軍を指揮していたのは武田一族の武将ばかりで、彼らは勝頼の無謀な作戦によって敗北し、それに巻き込まれて戦死することを恐れたのだと思われます。

これによって中央が崩れた武田軍は組織的な活動ができなくなり、左右の軍は孤立して逆に包囲され、追撃を受けて崩壊していきました。

この結果、山県昌景や馬場信春、内藤昌豊らの武田軍の中核を担う武将たちが次々と戦死し、武田軍は1万という多大な死傷者を出しています。

一方で織田・徳川軍の損失は数十名だったとも言われ、信長の作戦によって圧勝しています。

こうして信長と家康は数年に渡って苦しめられた武田軍を撃破し、以後は東海道での戦いを有利に進めていきます。

家康は個人の考えについて語ることの少ない人で、この時にどう思ったのかは伝わっていませんが、信長の作戦能力には大いに感服したことでしょう。

家康の反抗

長篠城を守り抜いて勝機を生み出した奥平貞昌は、信長から一字を拝領して新たに信昌と名のっています。

一方で家康は長女の亀姫を信昌に嫁がせて一門衆に加え、その戦功に報いました。

これらの報奨の大きさから、長篠の戦いが信長と家康にとって、いかに大きなものであったかがうかがい知れます。

家康は長篠の大敗によって武田軍が動けなくなった隙を突き、信玄に奪われていた遠江の二俣城を奪還します。

続いて諏訪原城も奪取して大井川周辺を支配下に収め、勝頼に奪われた高天神城への補給路を遮断し、遠江東部の戦況を有利なものにしました。

こうして長篠城の戦いを契機として武田氏と徳川氏の力関係は逆転し、家康は攻勢に出て勝頼を追いつめていくことになります。

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