織田信秀は信長の父親で、尾張(愛知県)に一大勢力を築いた戦国大名です。
知勇にすぐれ、「尾張の虎」ともあだ名されて恐れられました。
彼の築いた勢力は、後に信長が大きな飛躍をとげるための基盤となります。
この文章では、そんな織田信秀の生涯について書いてみます。
織田信定の長男として生まれる
織田信秀は1510年に尾張の勝幡(しょばた)城主・織田信定の長男として生まれました。
父の信定は尾張の商港である津島や熱田を領地とし、交易などの利益を税収として得ることで財を蓄えて領地を発展させ、勢力を拡大していきました。
この商業重視の姿勢は織田氏の際立った特徴となり、信長にも受け継がれていきます。
信定は1527年に隠居したため、信秀は18才で家督を継ぎ、当主としての活動を開始しました。
清洲三奉行
信秀の生まれた織田家は、清洲三奉行と呼ばれる立場の家柄でした。
代々の官位から「織田弾正忠家」と呼ばれています。
これは尾張の南半分を支配する織田大和守家に仕える立場で、この時の信秀の身分は、さほど高いものではありませんでした。
しかしこの時代は元の身分に関係なく、実力次第で勢力を伸ばせる下剋上の風潮がありました。
信秀はこれに乗り、領地の経済力と、自らの才知をもって積極的に勢力の拡大を図ります。
那古屋城の奪取
この頃の尾張の一部は、駿河(静岡県東部)に本拠地を持つ大名・今川氏親に支配されていました。
那古屋城(後の名古屋城)に今川氏親の一族である今川氏豊が入り、同地の経営にあたっています。
信秀は1532年にこの那古屋城の奪取をもくろみ、計略を用います。
今川氏豊は連歌を好む人物で、頻繁に連歌の会を催していました。
(連歌とは、多人数で和歌を連作して楽しむ催しです)
信秀はこれを利用し、この連歌の会に何度も参加し、氏豊と親しくなっていきます。
やがては那古屋城に何日も逗留できるほどの友好関係になり、そこで計略を実行に移します。
信秀はある日城内で病に倒れ、氏豊に「家臣に遺言をしたいから城内に入れて欲しい」と願い出ます。
同情した氏豊はこれを許可しますが、すると信秀は仮病のふりをやめ、入城した家臣と共に城に火を放ち、城外に待機させておいた兵を引き入れ、あっというまに那古屋城を乗っ取ってしまいます。
捕らわれた氏豊は信秀に命乞いをして許され、京都に逃げ延びました。
こうして信秀は兵の損害を出さず、わずか22才にして、鮮やかな手腕で勢力の拡大に成功しました。
ちなみにこの時の信秀と類似の策を、後に美濃(岐阜県)の竹中半兵衛が用いています。
隣国の出来事ですし、もしかしたら模倣したのかもしれません。
尾張一の実力者となる
その後も信秀は順調に勢力を拡大させ、古渡城や末森城といった拠点を那古屋城の周辺に築き、尾張の南西部から南東部へと支配地域を広げていきます。
そして京都に上洛し、朝廷に献金をして従五位下・備後守に叙任されます。
さらに伊勢神宮の式年遷宮の際に700貫を献上し、三河守にも任じられました。
こうして実力でも格式でも主家を上回る立場となりましたが、信秀には主家を倒して取って代わろうとする野心は、不思議となかったようです。
あるいはそれを実行に移すと、成り上がり者である自身への反発が強くなりすぎ、尾張の統制が取れなくなる恐れが強かったのかもしれません。
ともあれ、尾張では敵なしになった信秀は、隣国への侵攻を開始します。
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