織田信秀 信長の飛躍の礎を築いた「尾張の虎」

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斎藤道三との関係改善

三河と美濃の両方面に敵を抱えて危機に陥った信秀は、美濃の斎藤道三と和睦することにします。

そして道三の娘の濃姫と嫡男・信長との婚姻を行い、斎藤氏との関係を改善します。

同時に娘を道三の側室として差し出し、相互に人質を送る形をとり、深く縁を結んでいます。

後に道三は信長の才能を高く評価してその支援者となり、信秀の予想を超えた恩恵を信長にもたらすことになります。

こうして斎藤氏との関係の改善には成功しましたが、領地の経営を順調に進め、勢力を増してくる今川義元との戦いは劣勢が続き、信秀はこれに苦しめられることになります。

信長を後継者に

信秀は自身の後継者を信長に定め、周囲に意見されてもこれを変えることはありませんでした。

信長は素行が悪く、奇矯なふるまいが多かったため、将来を危ぶむ声が多かったのです。

弟の信行は兄と違って行儀がよかったことも、この傾向に拍車をかけることになりました。

しかし信秀は信長の才能を見抜いていたようであり、これにゆさぶられた形跡は見受けられません。

斎藤道三も同じ評価をしていますし、彼らは表層に惑わされず、信長の将来性をしっかりと認識していたようです。

信長は幼い頃から、かつて信秀が奪取した那古屋城を与えられており、ここが初期の根拠地となります。

その死

今川氏との対立が続く中、1551年、信秀は居城である末森城で急病に倒れてしまいます。

そして間もなく死亡しました。

死因は流行病にかかったという説や、脳卒中、心筋梗塞などの説もあります。

享年は42才でした。

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【織田信秀の墓所の写真】

そして信長へ

信秀の活動には様々な制約や限界があり、ついに尾張から他国にまたがった、広大な勢力を築くには至りませんでした。

尾張国内にも他の勢力が残存しており、この統一も果たせていません。

しかし、織田弾正忠家を発展させ、後に信長が尾張を統一するための下地を作ることには成功しました。

尾張南部に勢力を築き、斎藤道三との関係を結び、信長をその後継者に指名したことが、後の織田家の発展を導いていきます。

こうした人物の事跡は埋もれがちですが、下地なくして飛躍はなく、信長の業績は優れた武将であった、父の築いたものに負うところが大きいと言えるでしょう。