織田信秀 信長の飛躍の礎を築いた「尾張の虎」

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西三河を支配する

1535年、西三河(愛知県東部)を支配する松平清康が、戦場で家臣に殺害されるという変事が生じます。

信秀はこの機を逃さず、西三河への侵攻を開始しました。

尾張から東に向かって勢力の拡大を図ったことになります。

そして1540年には尾張と三河の国境付近にある安祥城を攻略し、支配下に置くことに成功します。

信秀の侵攻により危機に陥った松平氏は、駿河の今川義元の支配下に入ることを選び、今川氏が三河に介入する情勢になります。

この時、今川氏は家督相続争いの余波で混乱が続いており、十分な軍備を整えられない状況でした。

今川義元は、それでも1542年になると三河に兵を送って来ますが、信秀はこれを小豆坂の戦いで破り、西三河の支配権を確立します。

美濃に侵攻するも、撃退される

同じ頃、美濃では国主の土岐頼芸が家臣の斎藤道三によって追放される事件が発生します。

信秀はまたしてもこの混乱につけこみ、土岐頼芸を保護して斎藤道三と戦います。

今度は尾張から北に向かって攻め込んだことになります。

そして美濃西部の大垣城の奪取に成功しますが、これが越前(福井県)の領主・朝倉氏の介入を招きます。

信秀は美濃に進軍してきた名将・朝倉宗滴と戦いますがこれに敗れ、美濃から撤退せざるを得なくなります。

1547年になると、今度は斎藤道三の本拠地である稲葉山城まで攻め込みますが、またも撃退され、信秀の勢力の拡大は思うように行かなくなっていきます。

度重なる美濃攻略の失敗から求心力が低下したようで、1548年には甥の織田信清が謀反を起こします。

すぐに鎮圧して従属させますが、信秀の勢いには、明らかにかげりが見えていました。

松平氏の嫡男・竹千代を人質として得る

この年に西三河の領主・松平広忠が、主君である今川義元に、嫡男の竹千代を人質として送ろうとします。

しかし、その護衛を請け負った三河の国人領主・戸田康光が信秀に寝返り、竹千代を尾張に送ってきます。

こうして思わぬ形で松平氏の嫡男を手元に置くことになりますが、松平氏は今川氏への従属を続け、三河の情勢に大きな変動はありませんでした。

この竹千代が後の徳川家康であり、尾張滞在時に信秀の嫡男・信長との間に交流が持たれた、と言われています。

これが事実であれば、後に天下を担う二人の英傑は、幼馴染だったことになります。

三河の拠点を失う

今川義元は竹千代を奪われても従属を続ける松平広忠を信用し、三河への派兵を決定します。

そして腹心である太原雪斎に1万の軍を与え、西三河を攻めさせました。

信秀も出陣し、4000の兵でこれを迎え撃ちますが、奮戦するもこの戦いに敗れ、織田勢は撤退に追い込まれます。

太原雪斎は翌1549年に再び大軍を率いて来襲し、織田方の重要拠点・安祥城を包囲します。

この時に安祥城を守っていたのは信秀の庶長子(側室の子)・信広でした。

信広は総勢2万にも達したと言われる今川・松平連合軍の猛攻を受けて城を守りきれず、捕縛されてしまいます。

そして太原雪斎はこの信広と竹千代の人質交換を申し入れ、信秀はこれを受け入れて信広を取り戻しました。

しかし三河の拠点を失い、その勢力は縮小してしまいます。

また、この敗戦によって織田氏の劣勢が明らかになり、三河と尾張の国人領主たちの離反を招くことにもなります。

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