小早川隆景 「毛利の両川」として、元就や輝元を支えた名将の生涯について

スポンサーリンク

小早川隆景は毛利元就の三男として生まれ、毛利氏の勢力の拡大と維持に大きく貢献した人物です。

水軍を統括して厳島の戦いなどで活躍した他、外交や統治面でも優れた働きを見せています。

天下人となった豊臣秀吉からは為政者として大きな評価を受け、独立した大名となって五大老に列するほどの待遇も受けました。

しかし当人は毛利氏を支えることを行動原理としており、それを最後まで貫いています。

この文章では、そんな隆景の生涯について書いてみます。

【小早川隆景の肖像画】

毛利元就の三男として生まれる

隆景は1533年に、毛利元就の三男として誕生しました。

幼名は徳寿丸と言います。

この頃の元就は、まだ安芸(広島県)の一領主の立場でしかありませんでした。

そして周防・長門(山口県)や北九州にまたがって大勢力を形成していた、大内義隆の傘下に入っており、人の命令を受ける立場でもありました。

隆景は成長すると、やがて父の独立や勢力の拡大に貢献していくことになります。

小早川氏の養子となる

安芸には、鎌倉時代に土着した小早川氏という豪族がおり、この頃には毛利氏と同じく、大内義隆に従属するようになっていました。

元就が尼子氏の大軍に攻め込まれた際に、小早川氏の当主・興景が救援に駆けつけたこともあり、両家は良好な関係にありました。

しかし1540年に、この小早川興景が元就とともに、安芸武田氏との戦いに出陣すると、戦いの最中に病いにかかって急死してしまいます。

興景には後を継げる男子がいなかったため、小早川氏の重臣たちが協議し、徳寿丸を養子として貰い受けたい、と元就に申し入れてきました。

これは興景の妻が元就の姪であり、両家に縁戚関係があったことが影響していました。

また、元就はこの頃に安芸で頭角を現しており、小早川氏の将来を考えると、毛利氏との関係を深めておいたほうがよいと思ったのでしょう。

主君の大内義隆にはかったところ、この話を受けるようにと強く勧められたため、元就は承諾し、徳寿丸を小早川氏の養子に出すことにしました。

この時に徳寿丸は元服し、大内義隆から「隆」の一字を与えられ、興景の「景」を合わせ、小早川「隆景」と名のっています。

これは1543年のことで、隆景はまだわずか10才でした。

初陣で活躍する

隆景は1547年に、山名氏の勢力圏にある備後(広島県東部)・神辺(かんなべ)城の攻略戦で初陣を飾り、そこで武功を立てています。

小早川氏は強力な水軍を擁しており、神辺城の南東の海辺に城を築き、そこを拠点として攻撃をかけるよう、大内義隆に命じられます。

小早川軍はこの作戦に成功し、神辺城の支城を攻め落とし、続いて竜王山に築かれた出城も攻略しています。

こうした働きによって、大内義隆から感状(武功を承認する書状)が与えられており、14才にして、早くも戦場で功績を認められました。

こうして隆景の優れた器量が世に示された頃、小早川氏の内部で抗争が発生することになります。

竹原と沼田の小早川氏

隆景が家督を継いだ小早川氏は、正確には竹原小早川氏といい、沼田小早川氏の分家の家柄でした。

竹原と沼田は、それぞれに支配する地域の名前からつけられています。

竹原は分家であったものの、戦国時代になってから着実に勢力を伸ばしており、一方で沼田の本家は、当主が3代に渡って早逝したことから、勢力が衰えて来ていました。

この時の沼田本家の当主は小早川繁平と言いますが、生まれつき病弱な上に、3才の時に患った病が原因で、盲目になってしまっていました。

沼田は尼子氏から何度も侵略を受けており、繁平が当主では守りきれないだろうと、不安視する声が高まっていきます。

これを受け、沼田では繁平をそのまま擁立しようとする一派と、隆景を本家に迎えて当主にしようとする一派が、争いを始めるようになりました。

【次のページに続く▼】