隆景は小早川氏の養子に迎えることを申し出る
秀俊が毛利氏の当主になると、実質的に豊臣氏に乗っ取られてしまうことになり、かつて元就がやっていたことと、同じことをやられてしまうことになります。
このために隆景は、輝元の後継者には従弟の秀元を養子にすることが決まっていると告げ、この話を断りました。
しかし断るだけですと秀吉の不興を買うことになりますので、かわりに小早川氏の養子に秀俊を迎えることを申し出ます。
小早川氏も鎌倉以来の歴史のある武家であり、今は37万石の領地を持つ大名の家ですので、格式には問題がありませんでした。
こうして隆景は自家を犠牲にすることで、本家の乗っ取りを防いでいます。
養子にしていた秀包には別家を立てさせ、独立した大名としました。
こうして小早川氏の養子となった秀俊は、やがて秀秋を名のり、隆景の死後に行われた関ヶ原の戦いで、勝敗を決する重要な役割を担うことになります。
五大老に任じられる
こうして秀吉の養子だった者を迎えたことで、小早川氏の家格が上昇し、隆景は豊臣政権の運営を担う立場にもつきました。
後世から五大老と呼ばれた重臣たちに列し、主君であった毛利輝元と並んで書面に署名をするなどしており、隆景の地位が非常に高いものになっていたことがうかがえます。
隆景自身はあくまで毛利氏の家臣であろうとしたのですが、自身の能力や、秀秋を養子にしたことなどの要因によって、徳川家康や前田利家とも肩を並べるほどの存在になりました。
しかしこの頃から隆景は体の衰えを感じるようになっており、秀秋に家督を譲って隠居することにします。
家臣団を伴って隠居する
隆景は秀吉から、これまでの功労に報いるため、筑前に5万石という大きな隠居領を与えられます。
隆景はやがて、小早川氏に古くから仕える家臣団を率い、安芸の三原に移りました。
北九州には新たに秀秋の側近である山口宗永らが入り、領地を差配していくことになります。
これは旧来の小早川氏の家臣団と、秀秋の率いる豊臣系の家臣団が衝突する事態を避けるための措置であったと思われます。
これによって、小早川氏は完全に豊臣系列の大名、という立場になりました。
そもそもが隆景が養子として入った家でしたが、二代に渡って血筋が変わるのは、なかなかに珍しい事態であると言えます。
その死
隆景は隠居してからおおよそ1年半を平穏に過ごした後、1597年の6月に死去しました。
享年は65で、安芸の沼田にある米山寺に埋葬されました。
こうして隆景の死によって、毛利氏を支える人材は、毛利秀元と、吉川広家の二人へと代替わりしました。
隆景と親しかった黒田官兵衛は「これで日本から賢人がいなくなった」と、嘆いたと言われています。
その後の毛利氏
隆景が健在な間は、毛利氏は豊臣政権の重臣としての地位を保ち、その領土が脅かされることはありませんでした。
しかし、1600年に発生した関ヶ原の戦いにおいて、毛利輝元が西軍の総大将の地位についたことで、毛利氏の立場は危うくなります。
補佐役の吉川広家は、輝元とは別の考えを持っており、東軍の総大将である徳川家康と密かに結託し、彼と戦わないことで毛利氏の立場を保全しようと務めました。
しかし、戦いが家康の勝利に終わると、輝元が北九州や四国に兵を送って東軍を脅かしていたことが知られ、毛利氏への処遇が厳しくなります。
そしてその領地を全て没収する、という沙汰が下されそうになりました。
これに対し、吉川広家が自分に与えられることになった周防・長門30万石の領地を輝元に残してくれるようにと家康に懇願したことで、かろうじて毛利氏は存続を許されています。
こうして、隆景の死からわずか3年後には、毛利氏の領地は120万石から30万石にまで減少してしまいました。
隆景亡き後の毛利氏の人材では、120万石の大領を守るには、力不足であったようです。
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