厳島の戦い
元就は自軍を三つにわけ、本隊に自身と隆元・元春を配し、隆景を第二軍として宮尾城の救援に向かわせます。
そして村上水軍を第三軍として沖合に待機させ、戦いが始まったら陶隆房の水軍を襲撃するように示し合わせます。
本隊と第二軍は夜の闇にまぎれ、島の別の地点に上陸しようとします。
この時に隆景が率いる第二軍は陶方に発見されますが、「筑前(福岡県)から加勢に来た」と偽りを述べて切り抜け、上陸に成功します。
翌日の早朝から、毛利軍は予定通りに陶軍への奇襲攻撃を開始しました。
毛利軍が渡海した日は海が荒れており、このために渡海してきていないだろうと思い込み、陶軍は油断していました。
この結果、意表を突かれた陶軍は大混乱に陥り、少数の毛利軍に撃破されていきます。
隆景は宮尾城の部隊と合流すると、陶隆房が陣を構える塔の丘を本隊と挟撃する形で攻撃し、これを撃破しています。
追撃と陶隆房の自害
その後、隆景は兄の元春とともに陶軍に追撃をかけ、重臣の三浦房清を討ち取る手柄を立てました。
陶隆房は厳島から逃れようと、船を停泊させていた港に向かいますが、村上水軍の襲撃を受けて船が焼き払われ、あるいは逃走してしまっており、島から脱出することはできませんでした。
追い詰められた陶隆房は自害して果て、この「厳島の戦い」は、毛利軍の大勝利に終わっています。
これによって毛利氏は大きな名声を獲得し、その勢力を飛躍的に増大させていくことになります。
隆景はこの戦いにおいて、外交と実戦の両面において大きな功績を上げ、勝利に貢献しました。
大内氏の領地を支配下に収める
陶隆房の戦死によって大内氏の領内は混乱に陥り、その勢力は急速に弱体化していきました。
元就はこの状況を見逃さず、積極的に周防と長門に出兵し、大内氏の領地を奪取していきます。
隆景はこの戦いに参加し、元就や隆元とともにいくつかの城を攻略するなどして武功を立てました。
こうして毛利氏の侵攻を受け、大内氏の内部崩壊は加速していき、重臣同士が戦い合うなどしてさらに弱体化が進行します。
元就はそれにつけこむ形で攻勢を続け、陶隆房が擁立した大内義長を自害に追い込み、1557年には大内氏を滅ぼしています。
こうして毛利氏は周防・長門を支配下に収め、安芸を合わせ、一躍3ヶ国を支配する大大名にのし上がりました。
元就が隠居して隆元が後を継ぐも、やがて急死する
周防・長門の攻略に成功すると、元就は隠居し、嫡男の隆元に家督を継承させました。
こうして隆景と元春は、引き続き兄を補佐する形で毛利氏を支えていくことになります。
隆元は謀略を好む父とは正反対の性格で、誠実で真面目な人格の持ち主でした。
しかしそれゆえに、陰謀が渦巻く乱世の時代に生き残っていくのは難しいのではないかと、元就からは心配されています。
やがてその危惧は現実のものとなり、隆元は1563年に、従属する国人領主から接待を受けた際に、毒殺されてしまいます。
元就は激しく怒り、陰謀に加担した領主たちを捕らえ、ことごとく処刑しています。
隆元の子・輝元が当主となる
この事態を受け、隆元の嫡子・輝元が毛利氏の当主になり、元就が後見役を務めることになりました。
隆景と元春はこの輝元の養育にあたり、大勢力となった毛利氏の当主にふさわしい人物に育つように、時に折檻もするなど、厳しく接したと言われています。
その一方で、隆景は主に毛利氏の政治や外交を担当するようになり、元春が軍事を担うようになっていきました。
このようにして、隆景らは幼い当主を盛り立てつつ、毛利氏を維持・発展させていくことになります。
兄の死によって、毛利氏を運営していく責任をも背負わなければならなくなった、ということでもあります。
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