小早川隆景 「毛利の両川」として、元就や輝元を支えた名将の生涯について

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北九州の支配を任される

隆景は1586年に行われた九州征伐にも参加し、激戦となった根白坂の戦いで活躍し、大きな軍功を立てています。

しかしこの時に隆景とともに毛利氏を支えていた兄の元春が病死し、隆景はひとりでより大きな責任を担うことになります。

戦後になると秀吉は、隆景に筑前・筑後・肥前1郡(福岡県一帯)を合わせて37万石という大封を与えました。

隆景は、すでに毛利氏は8ヶ国を支配しており、公役を務めるには十分な領地を持っていることを理由に、辞退しようとしました。

これを受ければ中国地方の輝元と切り離されてしまう恐れがあり、それこそが秀吉の狙いでした。

結局、隆景の辞退の意は秀吉に受け入れられず、隆景は北九州に在住し、同地の支配に当たることになります。

秀吉から高い評価を受ける

秀吉は隆景の統治者としての才能を高く評価しており、「日本の西は隆景に任せれば全て安泰である」とまで述べ、徳川家康と同等に論じています。

しかし隆景自身は毛利氏の柱石であることを望み続けており、本人の希望とは齟齬が大きくなっていきます。

秀吉の目には隆景は野心が乏しすぎると見え、「天下人になるには、知性と器量は足りているが、勇気が不足している」と評した、という逸話があります。

1588年に隆景が上洛した際に、秀吉から羽柴の名字と豊臣の本姓を下賜されており、その立場はさらに豊臣政権下で、強いものになっていきました。

文禄の役で活躍する

天下統一に成功した秀吉は、やがて海外進出を計画するようになり、1592年から朝鮮半島で「文禄の役」と呼ばれる戦いが始まりました。

この時に隆景は1万の軍勢を率い、6番隊の主将として戦いに参加しています。

そして養子の秀包と、親代わりとなって親しい関わりを持っていた立花宗茂と共に、明の軍勢と戦うことになります。

これは「碧蹄館(へきていかん)の戦い」といい、隆景は2万の軍を指揮する先鋒大将の地位につきました。

この戦いでは西国無双と呼ばれた立花宗茂と、その家臣たちが奮戦し、明の将軍である李如松を追い詰めるなどして活躍しています。

隆景は宗茂の活躍をいかし、巧みに部隊を指揮して明軍を三方から包囲して討ち破り、さらに追撃をしかけて戦果を拡大しました。

この戦いでは明軍は6千の死傷者を出したのに対し、日本軍は120名程度の損害で収まっており、圧勝であったと言えます。

この戦勝によって明軍は戦意を喪失して勢いがそがれ、やがて日本と明が講和を取り結ぶ機運が高まっていくことになります。

これが隆景が携わった、最後の大きな戦いになりました。

1547年の初陣以来、実に46年もの長きに渡って、戦い続けたことになります。

豊臣秀俊を毛利氏の養子にしたいという話が持ち上がる

こうして隆景が朝鮮で活躍する一方で、日本では豊臣家に変事が発生していました。

秀吉には実子がいなかったため、親類の子どもたちを養子にして、後継者の候補として育てていました。

しかし、やがて淀殿との間に実子の秀頼が生まれたため、養子たちは秀頼が秀吉の後を継ぐ上で邪魔な存在となり、その立場が危ういものになっていきます。

この状況を見て、黒田官兵衛は養子のうちの一人、豊臣秀俊に他家の養子の口を探すことにしました。

この時に候補になったのが、当主の輝元が40を越えても後継者となる男子がいない、毛利氏でした。

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