バテレン追放令 豊臣秀吉が宣教師の追放を命じたワケ

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豊臣秀吉は1587年に「バテレン追放令」を出し、キリスト教の宣教師たちの国外追放を命じました。

「バテレン」はポルトガル語の「padre(パードレ)」から来た言葉で、ローマ・カトリック教会の司祭を指しています。

それまで秀吉は織田信長の政策を引き継ぎ、キリスト教の布教を認めていましたが、この時になって、急にその方針を改めています。

この文章では、どうして秀吉は宣教師たちの追放を命じたのか、について書いてみます。

豊臣秀吉

【バテレン追放令を出した豊臣秀吉】

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イエズス会

ひとくちにキリスト教といっても、宗派が多数存在しており、それぞれに性格が異なっています。

日本で布教を行っていたのは、「イエズス会」という新興の宗派でした。

日本にはじめてキリスト教を伝道したことで知られるフランシスコ・ザビエルは、イエズス会創設時のメンバーのひとりです。

イエズス会を創設したのは、イグナチオ・デ・ロヨラで、元は軍人だった人物でした。

ロヨラは軍を退役した後、パリ大学に入学して神学の研究を行い、やがて自ら新しい宗派を立ち上げるに至ります。

ザビエルが勧誘されたのは、ロヨラと同じ大学に通っていたからなのでした。
(サビエルは哲学を学んでおり、当初は宗教とは関わりの薄い人物でした)

この宗派の特徴として、創設者の経歴を反映してか、他の宗教との闘争を厭わない性質を持っていた点があげられます。

元より一神教であるキリスト教は、他の宗教に対して非寛容な傾向がありますが、イエズス会はその中でも特に、排他的な性格を持っていました。

他の宗教を攻撃・排除し、その上でキリスト教を広めよう、というのが彼らの姿勢であり、このため、日本にイエズス会が入ってくると、すぐに既存の宗教である、仏教や神道との軋轢が始まっています。

ザビエルは1549年に日本に到着すると、やがて京に上洛して足利将軍家に布教の許可を求めるのですが、その過程で仏教徒に論戦を挑み、これを打ち負かそうとした、という記録が残っています。

また、ザビエルは当初、大内氏の領内で布教をしており、山口に滞在していたのですが、その際にも仏教徒と争っています。

イエズス会がこのような特徴を持っていたため、すでに仏教や神道が広く浸透している日本にやってくれば、宗教間の抗争が発生するのは、当然のことだったのだと言えます。

フランシスコ・ザビエル

【フランシスコ・ザビエルの肖像画】

九州で広まる

宣教師たちは日本でキリスト教を広めるにあたり、主に九州の諸大名たちに信仰心を抱かせようとしました。

領主が信仰をすれば、その領地に布教しやすくなるわけですが、俗世の権力を宗教のために利用しようとするのも、イエズス会の特徴のひとつでした。

もちろん、単に宗教を信仰させようとするだけでは、そう簡単に大名たちがなびくはずがありません。

そのため、宣教師たちは貿易の利益と宗教をセットにすることで、大名たちの歓心を引き寄せます。

大名たちは、宣教師がやってくれば、ポルトガルの商船もやってきて交易が始まり、莫大な利益が得られるだろうと期待して、宣教師たちの存在を受け入れていったのです。

そして当時、ポルトガルとの交易が行われたのは九州各地の港でしたので、九州でキリスト教が広まりやすくなったのでした。

大村純忠の信仰と、内乱の発生

そんな九州の大名の中に、大村純忠すみただという人物がいました。

宣教師たちは初め、平戸(長崎県北西部)を支配する松浦隆信たかのぶの領地で布教を行っていましたが、やがて隆信と不仲になっていきました。

隆信は宣教師たちを、貿易のための手段として受け入れていただけで、キリスト教の庇護には熱心ではなかったためです。

平戸の近隣の領主である大村純忠は、その話を聞いて好機だと判断し、領内にある横瀬浦よこせうらをポルトガル商人たちに提供し、教会を自費で用意することを約束します。

これを聞いた宣教師たちは、渡りに船とばかりに、平戸を去って大村領に拠点を移すことにしました。

そして横瀬浦での交易が始まると、大村氏は6万石の小大名だったにも関わらず、九州でも随一の富裕な大名の地位を得るに至ります。

こうして純忠は大きな成功を収めたのですが、やがて彼は貿易のための方便であったはずのキリスト教に、深く関心を抱くようになります。

そして1563年になると、家臣たちとともに受洗して、熱心なキリスト教徒になりました。

それだけならよかったのですが、宣教師たちにそそのかされ、純忠は領内の神社仏閣の破壊活動をも開始してしまいます。

純忠は受洗した当日、兄の有馬義眞よしまさが出陣するにあたり、その門出として、摩利支天まりしてん(仏教の守護神)の神像を引き出して首をはね、神社に放火し、跡地に十字架を立てるという暴挙を働きます。

(兄と姓が違うのは、純忠は有馬氏から大村氏に養子として入っていたためです)

すると兄が戦いに勝利したので、戦勝祈願がかなったとして、さらなる神社仏閣の破壊を行い、ついには祖先の祭日に、位牌を火中に投じるという行動にまで出ています。

純忠がこのように、急進的にキリスト教への傾斜を強め、神道と仏教を排除しようとした結果、領内で大規模な内乱が発生し、純忠は居城を追われることになります。

そして藪の中に隠れ潜んで追撃を逃れ、かろうじて小城にたどり着き、そこに立て籠もることになりました。

この様子から、領内の反発の規模が、相当に大規模だったことがうかがえます。

純忠はもとより養子として大村家に入り、実子から家督を奪っていたことから、家臣たちの一部が反発心を抱いており、完全には従っていなかった、という背景もありました。

やがて純忠に続いて、兄の有馬義眞もまた、反乱軍に居城を包囲されます。

こうして純忠のキリスト教への入信をきっかけとして、大村・有馬氏は領地を失いかねないほどの危機に陥ることになりました。

【次のページに続く▼】