父の救援
純忠の実父は有馬晴純といい、すでに家督を義眞にゆずり、隠居となっていました。
しかし大村家に送り出した養子の純忠と、義眞の危機を知り、政務に復帰します。
そして反乱勢力の首領と交渉し、純忠たちの救援に成功します。
こうして事態は沈静化しますが、内乱の際に横瀬浦が焼き払われており、大村領におけるポルトガルとの交易は、中断されることになりました。
この事件によって、キリスト教が九州で受け入れられながらも、同時に騒乱の火種にもなっていたことがわかります。
そしてイエズス会の影響を受けた大名は、神社仏閣の破壊行為に走っていたこともまた、確認できます。
これらの事象から、戦国時代に日本に入ってきたイエズス会の宣教師たちは、日本の秩序を乱す危険性を備えた存在だったと言えるでしょう。
このことが、後の追放令の公布につながっていきます。
長崎の開港
その後、1570年に純忠は長崎を開港し、再びポルトガルとの交易を開始しています。
これはポルトガル商人たちが、長崎が天然の良港であることを発見し、開港を求めてきたためでした。
今度は純忠も過激な破壊行為に走ることはなかったので、長崎は順調に発展し、当初は600人だった人口が、数年で3万人になるほどに成長します。
この流れが江戸時代にも引き継がれ、鎖国後も出島で、オランダとの交易が継続されることにつながりました。
大友宗麟の信仰
純忠の他には、大友宗麟もまた、熱心にキリスト教を信仰していました。
大友氏は北九州を制覇した大勢力でしたが、宗麟は精神に不安定なところがあり、重臣の妻を略奪するなど、不実な行いが多かったので、家臣たちの支持を失っていきました。
そのため、大友氏の勢力は傾き始め、薩摩(鹿児島県)から勃興した島津氏に押され気味となっていきます。
そのような情勢の中で、宗麟はキリスト教にすがるようになり、ついには領内での仏教や神道の信仰を禁じる、という措置を取ります。
しかし家臣の中にはそれらの宗教に帰依している者が多く、大きな反発と動揺を招きました。
宗麟がこの施策を発表したのは、島津氏との決戦となった「耳川の戦い」の直前のことでした。
宗麟はキリスト教との関係を深めることで、ポルトガル人が所持している大砲(国崩)を入手し、軍事力の強化を図ろうとした、という目的もあったようです。
いずれにしても、この措置によって家臣団の不和を招き、これが耳川の戦いにおける大敗と、大友氏の衰退を決定づけることに影響しました。
耳川の戦いの際の、宗麟の陣中には宣教師たちもついて来ており、大敗後は動揺しながらも、なんとか戦場から逃げのびた、という逸話が残っています。
戦場にまでついてくるほどに、大友氏の中枢に、宣教師たちが入り込んでいたことがわかります。
この後は防戦一方となり、やがて大友氏は滅亡寸前にまで追い込まれました。
すると宗麟は、臣従を申し出ていた豊臣秀吉に救援を要請し、窮地を切り抜けようとします。
この結果、秀吉が九州を自ら訪れることになり、キリスト教と日本人との関わりについて、詳しく知ることになりました。
秀吉とキリスト教
秀吉は主君・織田信長が本能寺の変で横死すると、実力でその後継者となり、自らの政権を樹立しました。
信長は生前、領内におけるキリスト教の布教を許可しており、自ら信仰はしないまでも、概ね好意的に接していました。
宣教師たちが命がけで遠い欧州から日本にまでやってきて、苦難に耐えながら布教に努める姿に感銘を受け、様々に便宜を図っています。
宣教師たちは秩序を乱す面もありましたが、無私の精神をもって、純粋に布教のために尽くす者が多かったのも確かでした。
そのあたりの高潔さも、武士たちを信仰に引きつける要因になったと考えられます。
秀吉も天下人になった当初は、この方針を引き継いでおり、バテレン追放令が出される前年までは、宣教師たちに便宜を図っていた記録が残っています。
ではどうして1587年になると、急に宣教師たちを追放することにしたのかですが、これには前兆がありました。
秀吉は九州に到着すると、長崎など各地を訪問し、日本人が奴隷として海外に売られていることを知ります。
また、宣教師たちの教唆によって、神社仏閣が破壊されている、という知識も得たことでしょう。
ですので、秀吉が奴隷売買を不快に感じ、一神教であるキリスト教の危険性を認識し、独裁者として強権を発動して、宣教師たちの追放を決めたのだ、という説があります。
ですが、これは正しくないようです。
当時の秀吉はまだ日本統一を完遂しておらず、その権力基盤は確立されていませんでした。
ですので、晩年に露呈させた強権的なふるまいはまだ見せておらず、この頃は終始、理性的かつ慎重にふるまっています。
ですので、秀吉が宣教師たちの追放を決定したことには、別の要因があったとみなすべきでしょう。
秀吉への要請があった可能性
イエズス会が神道や仏教を敵視し、施設の破壊と廃絶を望んでいた以上、神道や仏教の側も、イエズス会を敵視していた、と見るのが妥当です。
信長の存命時には、その眼前で、宣教師と仏教徒の宗教論争が行われたことがありました。
こういった争いは九州の各地でも発生しており、平戸では仏教徒たちがキリスト教徒たちを襲撃しようとしたことがあります。
ですので、神道や仏教の側が、日本全体の為政者としての地位を確立しつつあった秀吉に働きかけ、イエズス会の排除を要請したとしても、おかしくありません。
事実、秀吉がバテレン追放令を出したあとで、伊勢神宮が秀吉に礼状を送ったことがわかっています。
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