伊勢神宮とイエズス会
伊勢神宮とイエズス会の間には、さほど関わりがないように思えますが、当時の伊勢の大名・蒲生氏郷はキリスト教を信仰しており、そのために関係が発生していました。
当時のイエズス会の資料の中には、「氏郷が伊勢の領主となったことで、伊勢神宮と天照大神信仰に打撃を与えることが期待される」という記述が残っています。
このため、伊勢神宮はイエズス会の存在に危惧を覚え、その活動を抑制するように秀吉に要請したのだ、という説があります。
また、大村領や有馬領は従来、伊勢信仰が盛んな土地であり、そのために九州でも軋轢があったと推定されます。
そして伊勢神宮以外にも、イエズス会の存在を好まない宗教勢力は多数いたはずで、彼らがこぞって秀吉に要望を送り、それを受けた秀吉が、イエズス会の取り締まりに動いたのではないか。
そのように考えるのは、無理がないと思われます。
また、秀吉としても、自分が統治する土地の治安が乱れるのは、決して看過できる事態ではありません。
そして、千年近くにわたって日本に広められてきた神道・仏教と、30年程度の歴史しか持たないキリスト教のどちらを優遇すべきかというと、その判断は、自ずと前者に傾いたことでしょう。
そのあたりの事情によって、秀吉は宣教師たちの活動の抑圧へと、方針を転換することにしたのだと考えられます。
秀吉の勧告
秀吉はいきなり追放を命じたわけではなく、まずは宣教師たちに勧告を送っています。
秀吉は第一に、宣教師たちが人々を強制的にキリスト教徒に改宗させていることを咎めています。
「仏教徒は寺院の中で説教をするだけだが、宣教師たちは人々を駆り立て、地方から地方へと歩き回らせ、無理に改宗させようとするのはよろしくない。仏教徒たちと同じようにせよ」と、仏教と協調することを求めています。
これには、宣教師が大名と結託し、神社仏閣を破壊して、領民に信仰を強制することをやめさせようとする意図があったと考えられます。
そして秀吉は、これを受け入れないのであれば、中国に帰るように、とも告げました。
これは宣教師たちが、中国にも拠点を作っていたためです。
また、帰還のための費用が足りなければ、秀吉が援助するとも申し出ています。
第二に秀吉は、宣教師やポルトガル商人たちが、馬や牛を食することを咎めています。
当時の日本では、馬は運搬の、牛は農耕の道具として用いられており、食べる習慣はありませんでした。
にも関わらず、西洋人たちが牛を好んで食すことが、日本人から嫌われていたのです。
ですので、秀吉はこれもやめるように求め、かわりに野生の鹿や豚、犬、鶏などを食べるようにと促しています。
そして第三に、「ポルトガル人やシャム人などの商人が、日本人を奴隷として買い取り、連れて行ってしまうことは我慢のならないことだ」と告げ、売られてしまった日本人が帰還できるように取り計らうことを求めています。
また、「既に遠くに送られてしまっており、連れ戻すのが難しければ、現在買い取っている者たちだけでも解放されよ。そのための費用は自分が持つ」と告げています。
これらを見るに、秀吉はまだ強圧的に宣教師たちに接しておらず、国内で特に問題視されていた宣教師、およびポルトガル商人たちの行動を抑圧しようとしていたことがわかります。
そして発生する費用は自分が受け持つとも告げており、慎重な対応だったと言えるでしょう。
宣教師の回答
これを受け取ったのは、コエリョという宣教師でした。
彼は、自分たちは強制的な改宗は行っていない、とまず第一の要件を否定します。
しかし、実際には大名などの信徒を動かして神社仏閣の破壊を行っており、この返答は偽りだったと言えます。
宣教師たちは布教のやり方を改める意志を、持っていなかったのです。
第二の要件については、既に日本食になじんでおり、宣教師たちは牛を食べてないこと、必要であれば商人たちにも牛を食べるのをやめるように勧告する、と返答してます。
ですので、この点はさほど問題にはなりませんでした。
第三の要件については「自分たちは奴隷売買に関わっておらず、奴隷売買や、人々が奴隷の身分に落ちることを防ごうと努力していた。取り締まりは貿易港を支配する諸侯に命じるべきではないか」と返答しています。
イエズス会は商人たちが奴隷売買をすると、日本人から反感を買って布教の妨げになると認識しており、ポルトガル国王に対し、奴隷売買を禁止する布告を発するようにと働きかけ、実現していました。
ですので、イエズス会と奴隷売買の間には関わりが乏しく、この点もさほど問題にはなりませんでした。
しかし宣教師たちは大名を取り込み、領民たちに強制的に信仰をさせようとする方針を取っていたのは確かで、この点については秀吉をたばかろうとしたことになります。
このことが、次に出された追放令につながっているのだと考えられます。
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