バテレン追放令 豊臣秀吉が宣教師の追放を命じたワケ

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黒田官兵衛の扱い

秀吉の重臣に、高名な黒田官兵衛がいますが、彼もまた、他の武将に信仰を勧めるほどに熱心なキリスト教徒でした。

しかし秀吉は、その官兵衛には棄教を命じていません。

これは官兵衛に命じても、右近のように拒絶される可能性があり、そうなると秀吉は官兵衛を追放か、もしくは処刑しなければならなくなります。

すると「中国・四国・九州など、西国各地の平定に多大な貢献をしてきた官兵衛を切り捨てることになるので、それを避けるために命じなかったのではないか」と宣教師が推測しています。

このことから、秀吉の命令は家臣に対しても不徹底だったことがわかります。

また、秀吉は官兵衛に対しては、功績のわりにはさほどの領地を与えなかったのですが、信仰をめぐる軋轢から、官兵衛に不快感を抱いており、このために与えるべき領地を削減したのだ、とも言われています。

このように、キリスト教の問題は秀にとって複雑な要因をはらんでおり、すっぱりと全面的に禁止ができるようなものではなかったのでした。

【黒田官兵衛の肖像画 信仰をめぐって秀吉と軋轢があったと伝えられる】

信仰の自由の影響

この頃に宣教師が記した年報によると、当時の日本は「人々が自分の求める宗派に従うことには自由であるのが、一般的な日本の習慣」だとされています。

現代のように憲法に明記されているわけではありませんが、当時も信仰の自由が常識となっており、これを秀吉が禁止すると、大きな反発を受ける可能性がありました。

この文書の著者は、「関白(秀吉)は保身に慎重で抜け目がないので、キリスト教徒の弾圧によって反乱が起きることを怖れているのかも知れない」と推測しています。

当時の秀吉はまだ九州を支配しはじめたばかりで、情勢は安定していませんでした。

そのため、翌年には肥後(熊本県)で国人領主たちの大規模な反乱が発生しています。

ですので、禁教令を一般人にまで厳しく施行し、キリスト教徒たちの反発を買って、治安が乱れるのを警戒していた、というのはありうる話でしょう。

そのような事情があったことも、秀吉がキリスト教の信仰そのものは厳しく咎めなかったことに、影響していると考えられます。

この時点では厳しい措置ではなかった

これまで見てきた通り、バテレン追放令は宣教師たちの、秩序を乱す動きを抑止するのが目的で、秀吉は一般人の禁教までは考えていなかったことがわかります。

秀吉の布告の中に「下の者(一般人)が思いのままにキリスト教徒になることについては、仏教の各宗派を信仰するのと同じで、問題にならない」と明記されています。

宣教師たちもそういった気配を察して、多くが日本に残留し、有馬・大村領などでの布教活動を継続しています。

サン=フェリペ号事件

その後、イエズス会は畿内での布教は控えるようになりましたが、やがて新たにスペインのフランシスコ会が入り込んできて、京都でも布教活動を行うようになりました。

そんな状況下で、1596年に「サン=フェリペ号事件」が発生します。

サン=フェリペ号はスペイン国籍の船でしたが、土佐(高知県)に漂着した際に、領主の長曾我部ちょうそかべ元親もとちかに積み荷を没収される、という事態が発生しました。

当時の日本には、沿岸に漂着した船があれば、その積み荷は領主の物になる、という不文律があったようです。

これに抗議する過程で、サン=フェリペ号の航海士は、「スペインは世界の各地を支配する強大な国である」と主張し、豊臣政権に圧力をかけて積み荷を奪還しようとします。

秀吉はこれをスペイン人の、自身に対する挑戦と受け止めたようで、強く反発しました。

この事件の直後、秀吉は禁じているにも関わらず、フランシスコ会の宣教師たちが京都で布教を行っていることを咎め、彼らを捕縛の上、処刑するようにと厳命しました。

秀吉はさらに、捕らえた者たちの耳と鼻をそぐようにも命じたのですが、これは京都奉行の石田三成が、左の耳たぶのみを切るようにと、軽減する措置を取っています。

完全に実施はされなかったものの、秀吉の命令には、相当な怒りの感情がこめられていたことがうかがえます。

この結果、宣教師3名、修道士3名、日本人の信徒20名が捕縛され、長崎に送られ、そこで処刑されました。

これを「二十六聖人の殉教」といいます。

これが日本で執行された、はじめてのキリスト教徒の処刑になりました。

外交問題と、秀吉の意図

この秀吉の措置には、圧力をかけてきたスペイン人に対し、豊臣政権、すなわち日本は屈しないと示威をする意図があったと思われます。

また、禁じているにも関わらず、京都でフランシスコ会が布教活動を行っていたことを、秀吉が不快に思っており、事件をきっかけとして処置を行うことにした、という経緯もあったでしょう。

こうしてキリスト教に対する対応が一段階、厳しくなりましたが、依然として九州では布教が行われており、毎年1万人程度のペースで、信徒が増加していっています。

秀吉の政権下においては、抑圧も処刑もあったものの、まだ本格的な弾圧までには発展していなかった、と認識するのが正しいようです。

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