前田玄以は織田信長や豊臣秀吉に仕え、京都の奉行として活躍した人物です。
戦乱の時代はとかく武勇に優れた人物が目立ちますが、為政者にとっては、すぐれた行政官もまた必要であることに変わりはありませんでした。
このために玄以は、信長や秀吉にその才覚を認められ、奉行として活躍し、いわゆる名裁きを行ってもいます。
この文章では、そんな玄以の生涯と逸話を紹介します。
【前田玄以の肖像画】
美濃に生まれ、尾張で住職になる
玄以は1539年に美濃(岐阜県)で生まれています。
高名な前田利家と血縁関係はなく、美濃の前田という土地の出身だったことから、前田姓を用いています。
玄以の前田家は美濃の名族・斎藤氏の支流で、それなりの家柄の出だったことになります。
玄以は若い頃に出家しており、京の禅寺で修行をした後、やがて尾張(愛知県)小松原寺の住職になりました。
無名時代の秀吉と親しく付き合う
玄以は尾張で住職をしていた頃、木下藤吉郎という、織田氏に仕える足軽組頭(下級将校)と親しくしていました。
ある夏の日、藤吉郎は夕方に寺を訪れて縁側に座り、納涼のついでに玄以と雑談をしました。
その時に藤吉郎は「今は乱世だから、天運に恵まれれば、俺のような者でもいずれは大名や将軍になれるかもしれぬ。もしも実現したら、御坊の望みを何でもかなえて差し上げよう。何か望みはありますかな?」と玄以にたずねます。
すると玄以は笑い「その折には京都所司代にしてくだされ」と答えました。
京都所司代とは、京都の行政長官のことです。
「かねてより、京の者たちが横柄なのを憎らしく思っているからですよ」と玄以は理由を言い添え、藤吉郎はこれを聞いて笑いました。
玄以は若い頃、京の禅寺で学んでいましたので、周辺の住民に接し、その気位の高さに嫌な思いをしたこともあったのでしょう。
これを聞いた藤吉郎は「御坊の才はその職にぴったりでしょうな」と応じ、やがて戯れに、制約書を書いて玄以に渡しました。
これはただの笑い話でしかありませんでしたが、後に藤吉郎が豊臣秀吉になり、天下を取ったことから、玄以の望みが実現することになります。
信長に召し抱えられる
玄以は学問に熱心で、仏教の他、朝廷の儀礼を定めた経典や歌道にも通じており、知識人として世に知られるようになっていきました。
すると、京の中央政界で活動するようになっていた織田信長が玄以の存在を知り、招聘して家臣にしています。
公家や寺社勢力と付き合う上で、玄以のような経歴と知識を持つ者がいれば、何かと役に立つだろうと判断したのでしょう。
やがて玄以は行政の仕切りをこなせる能力も持っていたことから、信長の嫡男・信忠付きの家臣となり、側近として補佐をするようになりました。
織田氏の家臣として記録に残っているのは1579年のことでしたので、玄以は40才前後で仕官したことになります。
当時は学識のある僧が政治や外交に携わるのは珍しいことではなく、例えば毛利氏でも安国寺恵瓊という僧が外交官を務めています。
このため、玄以もまた信長の招聘を受けても、さほど意外には感じなかったと思われます。
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