玄以の裁き
それ以外にも、玄以には名裁きを行った、という逸話も残しています。
京の西山に、空世という号の法師がいたのですが、彼にはまだ幼い3人の子どもがいました。
最初の妻との間に生まれた長男は13才で、後妻との間にも、10才の男子と7才の娘がいました。
そのような状況下で、既に老いていた空世は病に冒され、やがて死の床につきます。
この時に親戚が集まり、どの子どもに家財や田畑を譲るのかを、決めるようにと求めました。
空世はこれに対し「私が死んだら、庭の梅の木を長男に取らせてくれ。家財以下のことは、梅に付いてまわるように」と、謎かけのようなことを言いました。
困惑する遺族
家族も親戚も、空世の言葉の意図が理解できず、困惑します。
しかし空世はそのまま亡くなってしまったため、誰に何を遺すつもりだったのかが、はっきりとはわからずじまいでした。
この結果、長男の親族と、後妻の親族との間で争いになり、3年が過ぎても遺産相続の取り決めをすることができませんでした。
事態がこじれにこじれてしまったため、後妻は玄以に仲裁を依頼します。
後妻は「梅の木と家財を長男に、田畑は弟と妹に、というのが夫の言いたかったことだと思いますので、そのように取り計らってください」と玄以に告げました。
玄以はこれを受け、双方の親族を呼び寄せて事情を詳しく聞き取ると、次のように裁定を下します。
「空世の財産は、家財も田畑もすべて長男が相続するように。弟と妹は、長男が親がわりとなって面倒を見よ。そして継母をも養い、ともに暮らすべし」というのが玄以の判断でした。
これを聞いた後妻は「夫が遺言した通りにしてください」と懇願し、双方の親戚も異議を唱えます。
玄以の謎解き
これに対し玄以は「そなたたちは愚なる者どもかな。空世が望み通りにしたまでよ」と告げました。
そして「よく聞くがよい。梅の木は年の初めに咲き、実るものだ。すべての草木の頭だから、梅は花の兄とも親とも言われる」と、まずは空世が言い遺した梅の木の意味を解説します。
「つまり人を梅にたとえて頭とすれば、これはすなわち親のことだろう。梅の木を長男が継げ、というのは、自分のかわりに父親となって、残る家族全員の面倒をみよ、という意味だったに違いない」と玄以は断言しました。
そして「空世という法師は、なかなかの風流人だったようだな」と褒め、「さあ、これで裁きは終わりだ。早く帰るがよい」と言って場をしめると、集まった者たちは抗論することができず、役所から引き下がりました。
そして「あれは普通の人間にわかる話じゃない。学者同士で初めて通じる話だ」と言い合いながら、家に戻って玄以の裁定通りに処置をした、ということです。
果たして本当に玄以が、空世の末期の意図を正確に読み取っていたかは、定かではありませんが、学識によって訴訟者たちを言いくるめ、複雑な事態を収拾したのは確かです。
この挿話から、玄以という人のありようをうかがい知ることができます。
玄以は思慮が深く、豊富に学識を備えており、それでいて欲が少ない人だったと言われています。
それゆえに都の行政長官としては、実に適した人だったのでしょう。
5万石の大名となる
このようにして、朝廷から町人まで、幅広い層を相手にしつつ、滞りなく政務をこなしっていったことから、秀吉からの評価が高まり、玄以は丹波(京都北部)亀山5万石の大名にまで立身しています。
これは1595年のことで、玄以はすでに56才になっていました。
玄以は一度も戦場で戦ったことがありませんでしたので、大名にまでなれたのは、異例のことだと言えます。
それほどに行政官としての手腕が優れていた、ということなのでしょう。
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