本能寺の変が発生する
信忠に仕えるようになってから3年後、信長の重臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺に宿泊していた信長を襲撃する事件が発生しました。
この時に信忠もまた、わずかな兵を率いて京の二条城に滞在しています。
このため、やがて二条城もまた光秀の軍勢に包囲され、危機に陥りました。
死を覚悟した信忠は、まだ幼い息子・三法師を玄以に託し、二条城から脱出するようにと命じます。
そして「三法師を世継ぎとして守り育て、父祖の仇を討たせよ」と言い含めました。
玄以が選ばれたのは、僧の姿をしており、まったく武士には見えないため、明智軍の包囲を脱出できる可能性が高かったからでした。
玄以は命じられるままに二条城を脱出し、無事に三法師を美濃まで送り届けています。
この三法師は、秀吉が光秀を討った後、信長の後継者を定めるために開かれた「清洲会議」において、新たな織田氏の当主になっています。
しかしこれは、まだ3才の幼児を当主にすることで、織田氏の嫡流を弱体化させるための秀吉の策でした。
三法師はやがて成人し、織田秀信と名のるのですが、その時には結局、美濃18万石の一領主という身分に収まっています。
ともあれ、こうして玄以と秀吉の間に、再び関わりを持つ機会が訪れたことになりました。
秀吉に仕え、京都所司代になる
本能寺の変の後始末がつくと、玄以は信長の次男・信雄に仕えました。
やがて1584年になると、信長死後の権力争いを制した旧友の秀吉に誘われ、家臣として仕えるようになります。そしてかねてよりの望み通り、京都所司代に任命されました。
住職と一介の下級将校の笑い話が、おおよそ25年の時をへて、現実のものになったのです。
玄以は45才にして初めて顕職についたわけですが、当時は50才前後で隠居をするのが当たり前の時代でしたので、遅咲きの人生だったと言えるでしょう。
玄以は培った経験と知識を用いて朝廷や公家、寺社との交渉役を担当し、活躍しています。
後陽成天皇が秀吉の邸宅である聚楽第に行幸した際には、その取り仕切りを任されており、本領を発揮しました。
この行幸は、天皇に邸宅を訪れてもらうことで秀吉の権威を高め、同時に天下が泰平になったことを示す大事な儀式でした。
その仕切りを任されたことから、玄以は秀吉から相当に信頼を受けていたことがうかがえます。
それから数年後にも、朝鮮で大きな虎が退治され、それが日本に運ばれた際に、朝廷に披露する役目を命じられており、朝廷への窓口を長く務めていていたことがわかります。
そして玄以は民政をもうまくやりこなし、京の治安を安定させたことから、石田三成らと並んで、五奉行のひとりに数えられるまでになります。
民家の屋根の高さを揃えさせる
玄以の民政面における事跡の一つに、民家の屋根の様式を揃えさせた、というものがあります。
当時の京の民家の屋根は、瓦で見栄えよくこしらえたものもあれば、茅ぶきもあったりで整っておらず、高低もまちまちでした。
このために乱雑で見栄えが悪く、それを改善するため、玄以は京極通りという、秀吉もよく通行する通りから改善に着手します。
玄以は町人たちに「屋根を瓦で統一し、柱の高さも揃え、高低差がないようにせよ」と布告します。
そして「もしも改築の費用を出せない者がいれば、所司代が援助するので申し出よ」とも付け加えました。
役所の補助金で店や家の改築ができるわけですので、町人たちは喜んでこれに応じます。
この結果、秀吉は日々、景観のよい町並みを通行できるようになり、大変に喜びました。そして京都中にこの動きが広がっていくことになります。
この玄以の政策によって、はじめて京の町並みが規格化され、景観が美しくなっていった、ということです。
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