織田信長との戦いが始まる
1574年になると、畿内の大部分を制圧した織田信長が、中国地方にも勢力を伸ばす様になっていました。
東では浦上宗景が、西では大友宗麟が信長の支援を受け、毛利氏の領地を攻撃するようになります。
さらに、備前の支配を任せていた三村元親が、毛利氏から織田氏に寝返ってしまい、その勢力は削減されていきます。
こうした状況下で、隆景は水軍を率いて大友軍と戦い、その侵攻を食い止めています。
信長包囲網に参加する
また、この頃には室町幕府の最後の将軍となった足利義昭が、京を追われて備後に落ち延びており、毛利氏が生活を援助していました。
義昭は越後(新潟県)の上杉謙信が信長と戦い始めていることを理由に、この動きに乗って信長への包囲網を構築して対抗するべきだと、隆景らに勧めています。
毛利氏単独で信長と戦うのは難しい情勢であったので、隆景らはこれを受け入れ、謙信や石山本願寺と同盟を結び、第二次信長包囲網に参加しました。
石山本願寺を支援する
1576年になると、石山本願寺は織田軍に包囲される状況となり、隆景は小早川水軍と村上水軍を指揮して、城塞への兵糧の搬入を行います。
これを織田方の水軍が妨害しようとして、大阪湾の木津川河口で戦いになりました。
この時に毛利方の水軍は焙烙玉(ほうろくだま)という、陶器に火薬を詰め、導火線に火をつけて投げ込むという、手榴弾のような兵器を用いて織田方の軍船を焼き払い、甚大な被害を与えて勝利しました。
毛利軍はこうして兵糧の搬入に成功し、石山本願寺は籠城を維持しています。
二度目の海戦に敗れ、劣勢に立たされる
しかし1578年に、再度毛利水軍と織田水軍が戦った際には、毛利方が大敗を喫してしまいます。
先の敗戦の後、信長は伊勢水軍を率いる九鬼嘉隆に、毛利水軍に勝利する方法を考案するようにと命じていました。
これを受け、九鬼嘉隆は「鉄甲船」という、鉄板で防御を固めた巨大な船を作り出しています。
6隻が建造され、これらの鉄甲船は近づいてきた毛利の軍船に対し、大砲や大鉄砲の一斉射撃を浴びせて沈めてしまい、これにはさしもの毛利水軍も手出しができませんでした。
この鉄甲船のために毛利水軍は撤退を強いられ、大阪湾の制海権を奪われてしまいます。
こうして毛利氏は畿内の情勢に関与できなくなり、包囲網の瓦解が進行していきます。
羽柴秀吉の侵攻を受ける
1578年に上杉謙信が病死し、1580年には石山本願寺が信長に降伏するなどして、包囲網は完全に消滅しました。
この結果として、毛利氏はほぼ単独で、中国地方の方面司令官となった羽柴秀吉と戦うことになります。
1579年には、三村元親から備前を奪った後、毛利氏に従属していた宇喜多直家が、秀吉の家臣・黒田官兵衛の勧誘を受けて寝返ってしまいます。
そして1580年には、播磨(兵庫県)で織田軍への抵抗を続けていた別所長治が自害します。
さらに1581年には山陰でも戦いとなり、吉川氏一門の経家が鳥取城主になって、秀吉の侵攻を防ごうとしました。
しかし秀吉の、食料を買い占めた上で兵糧攻めにするという巧みな戦術によって苦境に追い込まれ、4ヶ月の籠城の末に、経家が自害して開城しています。
こうして山陽でも山陰でも毛利氏の勢力は後退を続け、隆景らは追い詰められていきました。
備中高松城の戦い
1582年になると、秀吉は3万の軍勢を率い、備中高松城を包囲しました。
城の守将は隆景に忠実に尽くしていた清水宗治という優れた武将で、5千の兵を指揮して防備にあたります。
秀吉は宇喜多勢を先鋒にして高松城に攻めかからせますが、清水宗治はこれを二度に渡って撃退しています。
こうした状況を受け、毛利軍は当主の輝元を総大将に据え、隆景も元春も出陣して3万の軍を編成し、総力を上げて秀吉軍の迎撃に向かいます。
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