細川忠興への援助
秀次が粛清された際に、秀次と近い関係にあった大名たちも多くが処罰を受けました。
この時に丹後(京都北部)の大名・細川忠興は秀次に借金をしており、返済の目処が立っていなかったことから窮地に陥ります。
借金のかたに謀反への参加を促されたら断れなかっただろう、と追求される恐れがあったからです。
家康は忠興の家老・松井康之の要請を受けてこの借金を立て替え、忠興を救っています。
後に恩を受けた忠興は、関ヶ原の戦いで家康のために奮戦しますが、この頃から秀吉の失策を利用して、家康が味方を増やしていく、という構図が現れ始めるようになります。
内大臣への就任
1596年に、家康は内大臣に就任します。
他の大名たちは最高でも一段下の大納言しか与えられておらず、家康は秀吉を除けば最高の官位に就いていたことになります。
年老いた秀吉は、家康と前田利家の二人に筆頭家臣の格を与え、豊臣政権の柱石にする意向を持っていました。
利家は家康よりも実力では下回っていましたが、秀頼の傅役(教育係・後見人)に指名されており、この点では秀吉からより多くの信頼を得ていたようです。
家康はこの頃から京都に詰めることが増えており、政権全体の政務を担うようにもなっていきました。
秀次がいなくなったことで、家康と利家の地位が向上した、ということでもあります。
朝鮮出兵の再開
1597年になると、秀吉は朝鮮半島への侵攻を再開させます。
前回は短期間で朝鮮半島の奥地にまで侵攻したのですが、やがて明や朝鮮の義勇兵の反撃を受けて苦戦するようになり、あえなく押し返されていました。
そのため、今度は朝鮮半島南部の沿岸部に城を築いて基盤を固め、恒久的に支配権を確立することを目標としていました。
これらの作戦は明と朝鮮軍の抵抗を受けながらも進行していくのですが、この過程で多くの武将たちが秀吉から罰せられる事態が発生しています。
この時に秀吉は大坂にとどまっており、福原長堯(ながたか)らの奉行衆を軍目付に任じ、現地の武将たちの行動を報告させていました。
半島南部に日本軍が築いていた蔚山城(うるさんじょう)において、加藤清正らは明・朝鮮軍5万7千に攻められますが、この撃退に成功しています。
そして2万の敵兵を討ち取る大戦果を上げるのですが、戦後に関わった諸将が処分されるという、奇妙な事態が発生します。
豊臣家臣団の軋轢
この時に長堯らは武将たちのささいな過失などを報告したため、秀吉はこれに怒って蜂須賀家政や黒田長政を謹慎処分としました。
そして追撃戦で活躍した小早川秀秋は、なぜか領地を半分取り上げられる、という処分を受けています。
秀秋が転封となった後、その領地の代官に石田三成が任じられたため、三成が糸を引いて秀吉におかしな裁定をさせたのだという風評が立つことになりました。
この結果、これらの武将たちは三成らの奉行衆を強く憎むようになり、家臣団の深刻な分裂を招いています。
家康は後にこの時に罰せられた武将たちの処分の取り消しを行うなどして、好感を得て自身の派閥に取り込むことに成功しています。
こうして家康は秀吉の晩年の失策を利用し、自身の勢力を拡大していきました。
また、家康自身は朝鮮半島に出兵せずにすんだため、軍事費の負担に苦しめられることもなく、財力を維持して相対的に実力を高めています。
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