徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

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美濃への攻撃

福島正則らは尾張の清州城に入り、そこで家康の到着を待っていました。

しかし家康がいつまでも江戸を発たなかったため、軍監の井伊直政や本多忠勝らに苦情を言うようになります。

この時に家康は使者を送り、「何もせずに自分の到着を待つのではなく、戦功を上げて自分の味方であることを戦場で明らかにせよ」と伝えさせ、思い切った挑発を行います。

これを受けて福島正則は「家康殿の申されることはもっともだ」と述べ、西軍についていた美濃への攻撃を実行に移します。

この時に美濃の岐阜城は、信長の孫の秀信が城主となっていました。

福島正則や池田輝政らは競って岐阜城を激しく攻撃し、わずか数日でこれを攻め落としてしまいます。

こうして美濃の中央部は東軍の支配下に落ち、この戦勝を受けて家康はようやく徳川軍団を出動させます。

家康からすると、福島正則らが自分に味方するといっても口だけのことかもしれず、実際に戦わせることで確認が取りたかったのでしょう。

また、そうさせることで、彼らを後戻りできなくさせる意図もあったと思われます。

このあたりは実に家康らしい、石橋を叩くような慎重で手堅い措置でした。

徳川軍団の進撃

家康は7万の徳川軍を二手にわけ、3万2千を自分が率いて東海道を進み、残りを三男の秀忠に任せて中山道を進ませることにします。

3万8千の軍を預かった秀忠には、榊原康政や本多正信といった経験豊富な腹心たちを補佐につけました。

秀忠はこれまでに大戦を経験したことがなく、また、軍事向きの性格でもなかったので、このあたりが不安要因ではありました。

ともあれ、家康は9月に出陣し、東海道を進んで11日にはかつての信長の居城である清州城に入りました。

一方で秀忠は中山道に向かい、やがて真田昌幸が守る上田城のあたりに到着します。

第二次上田合戦

この時、秀忠のもとには昌幸の嫡男・信幸が所属していました。

真田氏はこの時、親子で属する陣営が別れていたのです。

信幸は2千の兵力しかもたない昌幸に降伏を促しますが、昌幸は降伏すると偽って時間を稼ぎ、秀忠の軍勢が簡単に西進できないようにします。

やがて交渉が偽りであったと知った秀忠は怒り、上田城への攻撃を開始しました。

この時に昌幸の挑発を受けた部隊が上田城に攻めかかりますが、激しい抵抗を受けて撃退され、手痛い打撃を受けます。

さらに昌幸の次男・信繁に秀忠の本陣が奇襲されて銃撃を受け、秀忠は慌てて撤退しました。

体制を立て直し、再度包囲して攻撃をしかけようとしていたところに、家康から急ぎ美濃へと向かうようにと連絡が届きます。

この時に使者は大雨の影響で川を渡るのに手間取り、連絡を届けるのにひどく時間がかかってしまいました。

このため、家康が指定してきた期日にはすでに間に合わない状況でしたが、秀忠は上田に抑えの兵を残すと、急ぎ西進を始めます。

しかし結局のところ、秀忠は美濃での決戦に間に合わず、大きな失態を演じることになりました。

関ヶ原へ

東軍による岐阜城の攻略を受け、三成は西美濃にある大垣城に入り、各地に展開していた西軍を付近に集結させます。

そして大垣城の西にある関ヶ原周辺に諸将が集結していき、同地で決戦が行われる情勢になりました。

この時に家康は尾張に到着していましたが、すでに秀忠の軍勢が間に合わないとの知らせを受け取っていました。

家康の側には本多忠勝がおり、彼は秀忠の到着を待ったほうがよいと進言します。

一方で井伊直政は秀忠の到着を待たずに開戦すべきだと主張しました。

家康は直政の意見を採用し、秀忠の到着を待たずに関ヶ原へと乗り込むことを決意します。

西軍は関ヶ原に10万の軍勢が集まっており、一方で東軍は秀忠を欠いたため、7万5千程度でしかありませんでした。

しかも西軍は関ヶ原の西から南にかけて包囲陣形を取っていましたが、家康はその中に東軍を入り込ませる形で進軍します。

このため、軍の配置でも不利な状況に置かれました。

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