立花宗茂 「日本無双」と呼ばれた名将の生涯について

スポンサーリンク

江戸に滞在し続ける

宗茂は引き続き秀忠と、その嫡男の家光にも仕え、常に将軍家の身辺にいて相談役を務めました。

特に戦国時代を知らない家光に対しては、伊達政宗とともに戦乱の世のできごとを伝え、武将としての心構えを教える立場にあったようです。

(ちなみに、宗茂と伊達政宗は同じ年の生まれです)

家光にも重用され、将軍家の行事に随行した記録が多数残されています。

この頃には養子の忠茂に藩政を任せるようになっていたこともあって、宗茂は領地に戻ることはほとんどなく、江戸に滞在し続けました。

宗茂は誾千代とも、継室との間にも子どもが生まれず、このために弟・直次の子を養子としてもらい受け、後継ぎにしています。

最後の戦い

やがて1637年になると、島原や天草のキリシタンたちが反乱を起こしたため、幕府は大軍を動員して討伐に当たりました。

いわゆる「島原の乱」が勃発したのですが、宗茂はこの時に、既に70才を超えていたにも関わらず、幕府からの要請を受けて九州に下向しています。

そして総大将を務めた「知恵伊豆」こと松平信綱の補佐役を務めて活躍しました。

この時に宗茂は、敵の夜襲を的確に予測して被害が出ることを防ぎ、往年の実力を見せつけています。

また、一揆勢の抵抗が激しかったことから、同じく老将の水野勝成とともに、信綱に兵糧攻めの作戦を取るように進言しています。

この頃には、幕閣の中にも実際に戦場に出た経験のある者がほとんどいなくなっており、宗茂の戦況を見極める目は重宝されたようです。

この意見が的中し、一ヶ月ほど包囲をして一揆勢を弱らせ、それから総攻撃を行うことで、鎮圧が成功しています。

一揆勢が篭もる原城の攻略時には城への一番乗りを果たし、「武神が再来した」と諸将たちから賞賛を受けました。

この時の年齢を考えると、驚異的な体力を持っていたことがうかがえます。

しかしこの活躍が、宗茂が戦場で見せた最後の姿になりました。

江戸で死去する

島原の乱の終結後、宗茂は家督を正式に忠茂に譲り、自身は江戸の藩邸で日々を過ごしました。

以後は体が弱り始め、家光から杖を授けられたり、見舞いの使者を送られた記録が残っています。

そして病を患った後、1642年に75才で亡くなりました。

この頃には忠茂が立派な藩主となっており、宗茂の死後も立花氏は柳川の大名であり続け、明治維新を迎える時まで、大名の地位を保っています。

完成された武人

こうして見てきたとおり、宗茂は個人として図抜けた戦闘力を持っており、かつ軍の指揮能力も高いという、武人として完成された能力を備えていました。

それだけでなく、忠義の心が厚く、謹直な精神を備えており、家臣にも領民にも慕われるという、欠点らしい欠点のない人物であったと言えます。

武道だけでなく、茶道や能、笛の演奏も達者で、文化面にも長じていたようです。

さらに弓を自ら制作したり、仏像を作っていたという話も残っています。

蹴鞠の道でも師に認められており、運動神経や手先の器用さが、並外れて優れていたのでしょう。

現代に生まれていたら、名のあるスポーツ選手や武道家、あるいは芸術家になっていたかもしれません。

これほどの才能に恵まれた人物でありながらも、人には常に温厚に接し、謙虚で、欲を見せることはないという、優れた人格をも備えていました。

秀吉や家康、秀忠や家光など、時の権力者たちの寵愛を受け、その厚遇も並ぶ者がいないほどであったと言われています。

宗茂については、「褒めるしかない」というのが筆者の感想です。

戦国から江戸に時代が移るにつれ、武士に求められるものが、有能さから忠義の精神へと移り変わって行きますが、その両方を備えていた宗茂は、最も時代に適合した存在であったと言えるでしょう。

関連記事

島津義弘と豊久の、関ヶ原からの撤退戦(島津の退き口)について
島津義弘と豊久は、天下分け目の決戦となった「関ヶ原の戦い」に、1500の兵を率いて参戦しました。 そして西軍に属するものの、石田三成との確執から戦場ではほとんど戦っていません。 西軍が大敗する形で決着がついてからようやく動き出し、数万の...
本多忠勝 「天下無双」と呼ばれた戦国最強の武将の生涯
本多忠勝は幼いころから家康に仕え、生涯を通じて忠義を尽くし、数多くの戦場で活躍した武将です。 家康の家臣の中でも特に優れた者を指す「徳川四天王」のひとりに数えられ、天下統一の達成に大いに貢献しています。 また、織田信長や豊臣秀吉といった...