小早川隆景を援護する
立花軍が引き下がると、今度は小早川軍が前線に立つ状況になりました。
宗茂はこれを援護するため、森の中に移動し、戦闘に参加する機会を見極めます。
この時に、大軍を前にして兵たちが怯えないように、敵に背を向けさせて忍んでいた、という逸話が残っています。
やがて、小早川軍の先鋒部隊が明・朝鮮軍と接触したのを見て、宗茂は軍を出動させました。
今度は早朝の戦いとは逆に、旗を3倍も立てさせ、軍勢が実数よりも多いように見せかけます。
そうすることで、敵に「あそこに出てきたのは大軍だ」と錯覚させてひるませた上で、鉄砲の射撃を浴びせてから全軍で突撃をかけました。
立花軍は敵の左側面から白兵戦をしかけ、乱戦となります。
宗茂はこの時に自ら槍や刀を振るって奮戦し、敵の将兵を15人も討ち取っています。
大将自らの活躍によって配下の将兵たちも奮い立ち、立花軍はこの時に敵兵500を討ち取る戦果を上げました。
敵将を討ち取りかける
立花軍の活躍によって戦況は日本側に有利に傾いていき、さらに小早川隆景・秀包親子と、宇喜多秀家が率いる軍勢が明・朝鮮軍の包囲に成功します。
この時に立花軍は明の本隊に突撃をしかけ、敵の総大将である李如松と、先鋒大将の安東常久が一騎打ちを行っています。
常久はこれに勝利して李如松を落馬させますが、弟の李如梅に毒矢で狙撃され、戦死してしまいました。
立花軍は李如松の親衛隊80名も討ち取って追いつめますが、李如梅らの必死の抵抗を受けて防がれ、ついに李如松その人は取り逃がしてしまいました。
この時の戦いで、立花軍もまた多くの将兵を失いましたが、敵の本隊を切り崩した上に、他の部隊が包囲戦を順調に進めたことで、この戦いは最終的に、日本側の圧勝に終わっています。
日本軍の損害が500程度だったのに対し、明・朝鮮軍は6000もの死傷者を出したと言われています。
「日本無双」と称される
この時に立花軍は、2500という少ない兵数でありながらも、主力以上の働きを見せたことから、多くの賞賛を浴びることになりました。
小早川隆景は「立花の3千は他家の1万の軍勢に匹敵する」と賞賛し、報告を受けた秀吉は「日本無双の勇将である」と宗茂を褒め称えました。
宗茂はこの戦いが終わったとき、鎧や兜だけでなく、乗馬までもが返り血で血まみれになっており、刀は歪んでしまって鞘に戻せない、というすさまじいありさまになっていました。
どれほどの激戦だったのかがその様子からうかがえますが、このために地元の柳川では、宗茂を「鬼将軍」の異名で呼ぶようになりました。
この戦いの結果、宗茂は日本軍の中でも随一の存在だとみなされるようになっていきます。
その後も慶長の役において、加藤清正や小西行長の救援戦などで活躍し、多数の敵を討ち破ったという記録が残っています。
関ヶ原の戦いで西軍に参加する
その後、1598年には宗茂の主君であった秀吉が病死しています。
すると、豊臣政権の次席であった徳川家康が台頭するようになり、やがて豊臣氏の家臣たちは、家康に味方する「東軍」と、石田三成に味方する「西軍」に別れて争うようになります。
そして1600年には、いわゆる天下分け目の「関ヶ原の戦い」が行われますが、宗茂はこの時、家康から熱心に勧誘を受けていました。
家康からすれば、「日本無双」とまで呼ばれる宗茂は、是非とも味方につけておきたい存在だったのでしょう。
しかし宗茂は「秀吉公の恩義があってこそ今の私がある。ゆえに義に従って秀頼公に味方したい」と宣言し、西軍への参加を決意しました。
家臣の中には「西軍に勝ち目はないので、家康公に味方されますよう」と進言した者もいましたが、宗茂は「家のためを思ってくれるのはありがたいが、私は勝敗には拘らない」と答え、これを退けています。
宗茂は損得を計算せず、一本気に忠義の道を貫いており、実に潔い人であったと言えます。
一方で、その資質はあくまで武人のものであり、政治には向かない人であったということもうかがえます。
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