仁愛が強さを生む
立花軍があまりに強いことから、ある時に宗茂は、その強さの秘訣についてたずねられたことがありました。
この時に宗茂は、「特別な戦法を用いているわけではない。ただ、普段から兵たちに慈悲をかけ、親が子を慈しむように接していると、いざという時に命をかけて戦ってくれるようになる。それ以外に軍を強くする方法はない」と述べています。
家臣だけでなく、領民たちに対しても仁愛の心をもって接していたため、強く慕われることになったのでしょう。
それが結束を生み、強さを生む、というのが集団というものの道理であるようです。
領地を没収され、浪人となる
宗茂は西軍に属して大いに戦ったため、柳川を離れた後、家康に領地を没収されて浪人生活を送ることになりました。
加藤清正や前田利長が召し抱えたいと申し出て来ましたが、宗茂はこれを断っています。
このため、清正は宗茂を食客として扱い、生活の支援を行うことにしました。
この時に由布惟信や十時連貞(ととき つれさだ)ら、数名の家臣が同じく浪人となり、宗茂の供をすることになります。
一方、小野鎮幸は清正が「立花の家臣団を引き取りたい」と申し出たため、そのまとめ役として肥後に残っています。
清正はこのように、宗茂と立花氏に対し、非常に好意的なふるまいを見せています。
先に朝鮮の戦いで、守っていた城を敵に包囲されて危機に陥った際に、宗茂に救われたことがありましたので、こちらも島津義弘と同じように、恩を返したいという気持ちがあったのだと思われます。
妻・誾千代の死
宗茂が領地を追われた後、妻の誾千代は肥後にとどまっています。
こちらも清正の支援を受けつつ、農村で静かな暮らしを送りました。
しかし関ヶ原の戦いから2年後に、瘧(おこり)という高熱が出る病にかかり、死去してしまいます。
享年は34で、宗茂との間には子がなかったため、道雪の血筋は絶えています。
後に宗茂は良清寺を建立し、誾千代の菩提を弔いました。
現在は柳川城の中に神社が建立されており、そこで道雪と誾千代、そして宗茂の3人が祀られています。
京都での生活
柳川を離れた宗茂は、京に上ってしばらく浪人生活を送りました。
この時に清正から支援を受けており、仕官した小野鎮幸からも送金がなされていたようですが、それだけでは不足することもあったようで、家臣たちが虚無僧に扮し、托鉢を行って生活の糧を得ていました。
家臣たちが出払っている間、蟄居を命じられていた宗茂は、家で留守番をしていたようです。
そんなある日、家臣が出かける前に米を軒先に出して紙の上にまき、干しておいたところ、やがて雨が降り始めます。
この時、帰宅途中で家臣のひとりが「殿は米を雨のあたらないところにしまっておいてくださっているだろうか」と心配そうに言いました。
もうひとりの家臣が「おそらくしまってくださってはいないだろう。しかし、殿がそんな小さなことを気にするようになっては、立花家の復興は成らないだろうさ」と答えました。
果たして宗茂は米をそのままにしていたため、家臣たちが帰宅した頃には、濡れそぼっていました。
宗茂は生まれながらにして武家の当主として育ったため、細やかな生活感覚は備えていなかったようです。
このような逸話が生まれるような清貧の生活をしばし送った後、宗茂はかつて「東西無双」と並び称された、本多忠勝の世話を受けることになります。
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