江戸に下り、御書院番頭に取り立てられる
1603年に宗茂は江戸に下り、忠勝の世話で従者たちとともに、新宿の高田にある宝祥寺に滞在することになりました。
この頃に幕府は、関ヶ原で西軍に所属したものの、徳川氏に敵対心を抱いておらず、かつ能力のある元大名たちを、改めて取り立てるようになっていました。
このため、宗茂を徳川氏の家臣として取り立て、大名に復帰させようという動きが発生していたのです。
忠勝がこの窓口となっており、江戸に下った翌年には、御書院番頭という役職と、5千石の領地を与えられることになります。
御書院番頭は将軍の親衛隊長の役目で、宗茂の能力と人柄が、家康から高く評価されていたことがうかがえます。
一度は敵対した者をこの地位につけるのは、正に異例の措置であったと言えるでしょう。
こうして宗茂の蟄居は解け、新たに幕臣としての身分を得ています。
大名に復帰する
御書院番頭に就任してから間もなく、家康の嫡男で二代目の将軍となった徳川秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)として採用され、陸奥(東北)に1万石の領地を与えられます。
御伽衆は主君の政治や軍事の相談役となる役目で、宗茂の軍事能力を買われての措置であったと思われます。
後に2万5千石を加増されて3万5千石の大名になり、幕府における宗茂の地位は、順調に高まっていきました。
しかし再び大名にはなったものの、ほとんどの時期を将軍の側近として江戸に詰めることになり、領地の統治は由布惟信と、その子の惟次に委ねられています。
惟信は戦闘だけでなく、内政をもこなせる能力を備えており、1612年に亡くなるまで、宗茂と立花氏を支え続けました。
大坂の陣に参戦する
1614年になると、家康と秀忠は豊臣秀頼を滅ぼすべく、「大坂の陣」と呼ばれる戦いを発生させます。
この時に宗茂が豊臣氏に味方しないよう、家康は熱心に宗茂を説得しました。
宗茂はこれを受け入れ、秀忠の側近として参戦しています。
既に10年以上も徳川氏に仕えていたため、かつての主君であった豊臣氏を攻めることも、やむなしとして受け入れたようです。
宗茂は秀忠の参謀と護衛役を務め、敵の動向を的確に予測し、作戦の成功を助けています。
また、秀頼が自ら出陣してくることはないだろうと予測し、これも的中させています。
宗茂は敵の動向の予測を得意としており、これに対して常に先手を打つことで、戦況を有利に導く才能を持っていました。
そして最後の激戦となった真田信繁と毛利勝永の突撃の際には、自ら戦場に赴き、毛利勝永を撃退する戦功を立てています。
柳川に復帰する
1620年になると、長年の謹直な働きによってすっかりと信用を得たようで、旧領の柳川に10万石の大名として復帰することになります。
関ヶ原の戦いで改易された大名のうち、旧領に戻れたのは宗茂だけであり、幕府からの信頼が非常に厚いものになっていたことがうかがえます。
陸奥の領地は僻地とも言える場所にありましたが、「それに対する恨みも見せず、真面目に役目を果たし続けた姿を見て、旧領を授けることにした」という言葉が秀忠からかけられています。
加藤清正に仕官した小野鎮幸は、この頃には亡くなっていましたが、宗茂が柳川に復帰した際に、その子どもが立花氏に復帰し、以後は家老職を世襲しています。
こうして立花氏を、家老の由布氏と小野氏が支えていく体制が、再び構築されたことになります。
宗茂が柳川に戻るまで20年が過ぎていましたが、領民は子どもたちに宗茂の事蹟を伝え続けており、このために宗茂を慕う気持ちは受け継がれていました。
宗茂は家臣とも、領民たちとも深い絆で結ばれていたようです。
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