後藤又兵衛は黒田官兵衛・長政親子に仕え、数多くの戦場で勇名を馳せた武将です。
格闘能力に優れ、敵軍の動きを見抜く戦術眼を備え、時には兵器を開発することもあるなど、戦いに関する豊富な能力を備えていました。
やがてはその功績によって、1万石を超える大領を得るに至ります。
しかし、主君の黒田長政と仲違いをしたことから出奔して浪人になり、豊臣秀頼に仕えて大坂の陣で戦うことになるという、数奇な運命をたどっています。
この文章では、変転の多い人生を送ることになった、後藤又兵衛の生涯について書いてみます。
【後藤又兵衛の肖像画】
姫路で生まれる
後藤又兵衛は播磨国(兵庫)姫路で、1560年に誕生しました。
これは織田信長が桶狭間で今川義元を討った年で、戦国時代が終焉に向かって動き始める時期にあたります。
父は播磨の小大名・小寺政職に仕える後藤新左衛門で、又兵衛はその次男です。
やがて後藤氏の一族は、小寺氏の中で頭角を表した家老の黒田官兵衛に仕えるようになっていきます。
父を早くに亡くした又兵衛は、黒田官兵衛に引き取られ、その手元で養育されました。
つまり、官兵衛が父親がわりだったことになります。
後に又兵衛が示す武将としての能力を考えると、この時期からかなり目をかけられていたものと思われます。
しかし1578年、その官兵衛の身に異変が起こり、又兵衛は巻き込まれる形で、主君を変えることになってしまいます。
黒田官兵衛が捕らえられる
この頃の播磨は、織田信長と毛利輝元の勢力争いの狭間に位置していました。
そのため、播磨の領主たちは、両方の陣営から味方をするようにと勧誘を受けています。
そうした状況の中、小寺氏は官兵衛が主導して織田方につくことになりました。
しかし1578年に、摂津(大阪)の大名・荒木村重が織田信長を裏切って毛利輝元に属し、官兵衛は窮地に立たされます。
織田信長の勢力は近畿を中心とした領土を持っていましたが、摂津の荒木村重が寝返ると、対毛利の最前線である播磨は、後背地に敵を抱えることになるからです。
これにより、織田方についていた播磨の領主たちの間に動揺が広がっていきます。
このため、官兵衛は荒木村重に翻意を促すために有岡城に向かいますが、そこで捕らわれてしまいます。
伯父の謀反によって追放される
当主が不在になる異常事態に際し、黒田家の家臣たちは、忠誠を確認するために誓紙の提出を求められました。
しかし、又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が、これを拒んで謀反を企んだため、一族全員が追放されてしまいます。
こうして又兵衛は伯父の行動に巻き込まれる形で、育ての親である黒田官兵衛から切り離され、浪人になりました。
又兵衛が18才の時のことでした。
どうして伯父が謀反を企んだのか、その理由はよくわかっていませんが、この頃は小寺氏の内部で黒田家への反発が高まっていた時期であり、それに影響を受けたのかもしれません。
小寺氏は官兵衛を切り捨てて毛利氏側に寝返りますが、やがて織田軍団に攻められて滅亡しています。
仙石秀久に仕える
黒田家から追放されると、又兵衛は仙石秀久に仕えることになります。
仙石秀久は織田軍団の中国方面の司令官・羽柴秀吉配下の武将です。
このために又兵衛は、主を変えて中国地方での戦いに参加することになりました。
やがて羽柴秀吉は「本能寺の変」による織田信長の死後に大きく勢力を伸ばし、天下人への道を邁進していきます。
それにともなって秀久の立場も変わり、秀吉から四国攻略の司令官に任じられます。
そうした動きの中で、又兵衛は1583年に讃岐(香川)の城攻めに参加しており、この時期から名前が世に出るようになってきます。
秀久もまた豪傑として知られた武将ですので、その戦場での立ち居ふるまいからは、何かと学ぶところが多かったでしょう。
しかし、やがてこの仙石秀久の元からも、立ち去らざるをえないことになってしまいます。
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