後藤又兵衛(基次) 黒田家に仕え、大坂の陣で散った豪傑の生涯について

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九州での大敗

秀久は四国攻略戦が終わると、秀吉から九州攻略の先遣隊の役目を与えられ、6千ほどの兵を率いて北九州に上陸します。

この頃の九州は島津氏の勢力が席巻しており、薩摩(鹿児島)から北九州まで攻め上がって来ていました。

秀久は秀吉から防御を固めて拠点を確保するようにと命じられていたのですが、付近に進軍してきた1万ほどの島津軍に攻撃をしかけ、大敗を喫します。

そして味方を見捨て、北九州の拠点も放り出し、わずかな供を連れて領地の讃岐まで撤退するという、他に例を見ないほどの大失態を演じます。

この行いが秀吉を激怒させ、秀久は領地を取り上げられて大名の身分を失います。

家臣たちは解雇されることになり、この結果、又兵衛はまたしても本人の意志とは関係なく主を失い、浪人することになりました。

黒田家に再度仕官する

その後、又兵衛は黒田家に復帰し、黒田官兵衛に100石で仕えることになります。

伯父の謀反から8年が経過し、又兵衛への咎めはなくなっていたのでしょう。

この頃の黒田家は豊臣秀吉の家臣として九州征伐に参加しており、その戦いの中で又兵衛の名が世に知られるようになって行きます。

黒田家は豊臣秀吉から豊前(福岡)に領地を与えられますが、この地を鎌倉時代から治めていた城井氏が領土を譲ろうとせず、戦いになります。

この時に黒田官兵衛の嫡男・長政は、城井氏が篭もる城井谷への攻撃を強行しますが、反撃を受けて大敗し、軍勢が総崩れとなります。

このときに又兵衛は殿(最後尾の備え)を務めて敵の追撃を防ぐなどして活躍しました。

そして雷火砲という兵器を開発して戦った、と言われていますが、この武器の詳細については伝わっていません。

名称からして、銃器か大砲を改良し、堅牢な陣地の攻撃に用いたのだと思われます。

このようにして、又兵衛は黒田家の武将の中で、少しずつ頭角を現していきました。

朝鮮討ち入りで活躍する

又兵衛は1592年から始まった文禄の役(豊臣秀吉による朝鮮への侵攻)に従軍し、その戦場でおおいに活躍します。

城攻めで一番乗りを果たしたり、迎撃戦でも目立った戦功をあげて報奨を受けるなどしました。

そして晋州城の攻防戦では「亀甲車」という攻城兵器を開発し、これを用いて城壁を突き崩すという大きな戦功も立てています。

亀甲車は金属製の屋根がついた装甲車で、城攻めを行う兵士たちが、それを動かして城壁まで接近し、上からの敵の攻撃を防ぎつつ、壁を突き崩す工作を行えるようにしたものです。

当時は朝鮮に亀甲船という装甲船がありましたので、そこから着想を得たのでしょう。

又兵衛は武器を取って最前線で格闘する能力だけでなく、兵器を作って戦いを有利にする知性をも備えていたことになります。

その他にも、戦場の様子を見て敵軍の動きを予測する能力も持っており、自軍を的確に進退させることにも秀でていました。

黒田長政との確執

朝鮮での滞在時に、黒田家の陣中に虎が入り込んできて暴れまわったことがあるのですが、又兵衛は同僚の菅正利と協力してこれを討ち取りました。

又兵衛は勇敢で強壮な武将だったことがうかがえますが、この時に主の黒田長政から「一手の将でありながら、畜生と争うとは不心得である」と叱責を受けています。

味方を守るために戦って叱責を受けましたので、このことが、後に二人が不仲になった原因だとも言われています。

又兵衛は子どもの頃に世話になり、家臣に優しい黒田官兵衛にはよく仕えていましたが、その嫡男である長政には、対抗心を抱いていたふしがあります。

ある時、長政が朝鮮の武将と一騎打ちになり、馬から落ちて格闘戦になったのですが、近くにいた又兵衛はこれを助けず、長政の戦いを見守っていました。

これを不思議に思った他家の武将が理由をたずねたところ、「敵に討たれるようであれば我が殿ではない(仕えるほどの価値がない)」と言い放ち、悠然と眺めていたと言われています。

長政はどうにか勝利したものの、これ以来、自分を助けなかった又兵衛に対し、遺恨を持つようになりました。

長政は戦場で、自ら先頭に立って戦うことを好んでいましたが、それが同じく最前線で戦う又兵衛に、対抗心を抱かせる原因になったのかもしれません。

とは言え、官兵衛が健在で、戦いが多いうちは、能力のある又兵衛の立場は安泰でした。

しかしそれも、やがては危うくなる時が訪れます。

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